中村達『私が諸島である』をようやく読み終えた。あとがきまで読み、この内容の本が日本で出版され、日本語で読めるということの幸運を思った。
どのような言葉で語るかによって、記録できる現実は変わる、あるいはより力を持つ言葉が記録したものが歴史として認められ、その後ろには「歴史」とされなかった言葉にならない声が立ち尽くしていることを前提としたとき、普遍的「とされている」宗主国の言葉、表現では自分の生きている現実を書き表す、記録することができない、「リアリズム」が本当の意味で自分たちの生を表していないという状態について想像し、その状態との自分の現在地との関係性を考える本だった。
「14章 クレオール礼賛の裏で カリビアン・フェミニズム」の章が個人的に特に興味深く、ひとつ前の章まで積み上げてきた内容にある意味一石を投じるような章をよく、と思いながら、岡真理の『彼女の「正しい」名前とは何か』からの引用を見つけ、やはり、と静かに興奮した。またアリス・ウォーカーの名前とともにヌトザケ・シャンゲ『死ぬことを考えた黒い女たちのために』を思い出し、ひっぱりだしてきたら、「わたしのことを語ることばがほしい」と帯に書かれていたことをここに記録しておきたい。
ヨーロッパとアフリカというふたつの世界がカリブ海において人種的にも文化的にも交じり合ったと書くのは簡単だ。その白と黒の混淆から新しいクレオール文化が生成されたと書けば、字面で見ても美しい。しかし、クレオライゼーションの歴史には、白人奴隷主による黒人女性奴隷への性暴力という事実がある。性暴力にさらされながらも女性たちが耐え続けてきた悲痛な経験があったために、世界でも類を見ない異人種、異文化の混済がカリブ海で続き、現在礼賛されているクレオライゼーションの詩学へとたどり着いた。
それにもかかわらず、カリブ海思想は女性たちの経験を排除してきた。アフリカ系文学の研究者であるヴェラ・クジンスキーは、クレオライゼーションやメスティザへ(「混血」、「混淆」を意味し、ラテンアメリカで用いられる)、雑種性といったカリブ海思想の議論が、「男性だけによる企画もしくは成果として正当化されている」と批判する。「それにおいては、異人種間、異性間の強姦は、色の(……)境界を、そしてとりわけ強姦によって不在となった女性の身体を越えて、友愛に満ちた抱嫌として再形成されうる」。つまり、性暴力や性差別に耐え、主体性を決して失うことなく抵抗し続けた女性たちの経験は蔑ろにされ、クレオライゼーションは男性たちが植民地支配への抵抗の果てに勝ち取った白と黒の「友愛に満ちた抱擁」という美しい響きという形で理論化されるのだ。
『私が諸島である』 p.259
自分たちが創作物のなかで、宗主国の言葉とは異なる新たな自分たちを表現する言葉、物語を生み出した、と信じている人(男性)たちが、対女性の扱いにおいて自分たちは宗主国の男たちが持つ価値観を複製していたにすぎなかった、と気づかされたとき、彼らはいったいどのような衝撃をおぼえた/おぼえるのだろう。非常によく見る構図ではあるけれど、そうした彼らの、彼女らの扱いをこの本のこの章として書いた著者に敬意を抱いた。また第15章での有色人種のクィアの他者化に関する記述で、私が読んできた「クィア・スタディーズ」の書籍もまた欧米の理論に基づき描かれている可能性が高いことを想像したとき、植民地支配の影響に対抗しながらも、他者の言葉でしか自己を表現できないことを記述した以下の箇所が心に残った。
カリブ海のような非欧米社会に生きるレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの人々は、植民地支配の影響に今でも抵抗しながらも、欧米から輸入された誰かの言葉でしか自分を表現することができない。しかし、自分たちの経験をその「植民地的言語」によって翻訳すると、その過程で「何かが失われるのは避けられない」。誰かが「憐みの視線」を送りながら差し出してくるその「クィア」という傘は、アンサルドゥーアが言う差異を均質化し、消し去ってしまうような「偽りの統一を与える傘」かもしれないのだ。
p.296
しかし、この本を通して私が言い続けてきたことだが、「人間」をテーマとする理論が、普遍性を標榜しながら地域性を無視することがあってはならない。
p.296
もう一度読み返したい。図書館本だったこと、そして元々自分の本でもその習慣がないけれど、付箋をつけたい箇所がたくさんあった。
晩ごはんは小松菜と鱈のオイル蒸し、筍の炊きあわせ、さきいかとセロリのあえもの、トマトの晩ごはん。友人の子がわたしの名前を呼んだらしいのでそろそろまた会いに行かねばならぬ、などと言えるありがたみを胸に会いに行きたい。もっと家が近かったら気軽に会いにいけるし、もっと頼られたり頼ったりができる気がする。好きな人たちと同じマンションに住む話をよく友人とします。