労働者の権利である有給休暇をとる前の日にやたらと感じのよい人間を気取ってしまうとか、普段から感じのよいひととして職場で振る舞っているのはあくまで処世術、職場での評価等自分をプラスに見せるための行為である、と言い切るのも自分の行動を高くクールに見せかける言い訳でしかなくて、実際のところ他者から攻撃されないよう、なるべく丸まりかたくなる防御の姿勢の裏返しでしかないのかもしれない。感じがいい人に怯えがちなのに、自分を守るために自分が怖がる人になっていく。
『つながり過ぎないでいい』を読みながら、職場での「空気を読み」ながら、「マニュアルを読み」ながら、なるべくそれらを誤読をしないように仕事をこなすことが求められること、その困難さについて改めて考えてしまう。定型発達の人に合わせた、世の中のあいまいさを汲み取って、見えないところにあるとんがりにぶつからないよう、その間を器用に進んでいくような複雑な行動を日々求められ、それに応えられるひとだけが「社会人」として生きていけるような設計の社会の苦しさと、その苦しさを指差すことを積極的にやらずに、なんとなくそこでうまくやっていけているように消極的にふるまっている自分の滑稽さ。なにかつきたくない嘘をついているような気持ちがずっとどこかにへばりついている。
トーストしてガリガリバリバリ食べるのがおいしいパン。
自分1人だったら二日連続ソテーにしていた気がする。パートナーが在宅だったので二日連続同じものにするには……というようないつもの炊事を担う人間としての余計な意識がつきまとった結果の海苔煮。別に海苔煮美味しくてヘルシーでよかったね、でいいのにいつもこういうことをごちゃごちゃと考える。
おじさんの絵が描いてある赤ワインのうまみと出汁っぽさ。とても好みだった。
最後のほうのほぼ澱の部分だけど、なのかだからこそ、なのかおいしかった🍷