8月19日

socotsu
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柴崎友香『あらゆることは今起こる』を読み終えた。エッセイというのもあるだろうけれど、あまりに読みやすかったのは、ひとつひとつのエピソード、そこから筆者が考えたことが、いま自分にとって関心のあることに強く結びついていると手繰り寄せたくなるものだったから。なぜこれができないのかについてじっくり考えることは、なぜそれをできないと個人はよしとされないのか、「まとも」であると見なされないのか、そうした社会のあり方について考えることでもある。ガルシア=マルケスの小説において、一文に含まれる時間の多層さについて触れた箇所を読みながら、『私が諸島である』で語られていた、カリブ海の文学が西洋の歴史を記録するのとは異なった手法で記述されるにいたった、むしろ異なる手法でしか記述できない理由を思い返し、世の中(とはどこに立っている誰が定義するものなのか?)でスタンダードとされている感覚、言葉では形容できない世界の見え方・人間の生き方が現実にあり、それを出来合いの言葉の方に合わせてゆがめる必要などない、そうではない言葉で語るやり方が確かにある、という事実が淡々と示されている本という意味で、あまりにも遠いジャンルに分類される2冊だろうけれど、個人的に、近しい棚に置きたくなった。

どのような言葉で語るかによって、記録できる現実は変わる、あるいはより力を持つ言葉が記録したものが歴史として認められ、その後ろには「歴史」とされなかった言葉にならない声が立ち尽くしていることを前提としたとき、普遍的「とされている」宗主国の言葉、表現では自分の生きている現実を書き表す、記録することができない、「リアリズム」が本当の意味で自分たちの生を表していないという状態について想像し、その状態との自分の現在地との関係性を考える本だった。

4/23の日記より

『バトラー入門』も一緒に並べていいですか、いいよね!とだれかに問いかけて、かってに返事をもらった気持ちになる。幡ヶ谷の友だちの部屋みたいな本屋があまりにも好みだったので、さすがに本屋をやりたい、までは踏み出せないけれど、自分の部屋の書棚の本をもう少し関連付けて並べたくなっている。現状はみ出しまくって机の上やあらゆる台に積まれているため……しかしケアをひらく、シリーズは『どもる体』に感銘を受けて以降のこれが2冊めだけれど、もっとほかの著者の本も読みたくなってしまった。

「toxic masculinity」も「有害な男性性」と訳されていることが多いけれど、これも「有害」だとそのものが「害」の性質を持っていて固定されている感じがするのだが、「毒になる」だと、「男らしさ」として求められたり賞賛されてきたものが「毒」として作用してしまうイメージになる。このほうが伝わりやすい気がする。本人にも、周囲の人にも、「毒」になってしまうなにか。もっと伝わりやすい訳語はなんだろうとよく考える。

他にも色々メモしておきたい部分はあったけれど、この、「ある一方からはポジティブに捉えられていたものが、実はネガティブに作用するのではと捉え直される」という見方に非常に納得した。しかし「〜らしさ」が現代において発揮することを求められる場、想像はできるけれどまったく居合わせたくない。


先日、一応スケジュールに入れてあった結婚記念日(事実婚関係にある二人組であることを住民票の続柄を「妻(未届)」へ変更することで記録した日)をスケジュール通知で思い出し、「ねえ、そうらしいけど全然忘れてた」「だよね」という会話を当日朝にしたっきり、本当にきれいさっぱり忘れていたことを仕事中にふと思い出した。これは記念日など祝わなくてもよし、という話ではなく、激しく祝いたい/そこまで重きを置いていない(/の間にさらにグラデーションがある)がある程度揃ってないと悲劇が起こりかねないポイントだろうな、と思ったという話。記念日自体を祝うというより、おいしいものを食べる口実にすることは多々ある。

晩ごはんは長谷川あかりレシピのそうめんに豆腐ペーストを絡めたもの、ネクタリンとトマトとチーズ、蒸しなすです。朝ごはんの密度の高いパンのかみごたえが最高だったけれど、若干ここ最近調子がいまいちな(歯医者に行ったら様子を見ましょうと言われた)あごの負担を感じている。

@socotsu
そこそこ