友人と蚤の市へ。フランスやチェコで買い付けてきたシルバーのブローチや、動物の形のちょっとした置物、シュタイフのビンテージぬいに弱い人間は、宝の山に目がくらむ。もちろん店によって興味を強く惹きつけられるものが多い・少ないの違いはあるので、一度にたくさんの出店者のテーブルをざっと見ていくと、興味あるものが多いお店とそうでないお店の違いはわかるし、自分が惹かれるものの輪郭がぼやっと立ちあらわれてきておもしろい。
一期一会とはよく言ったものだと思いつつ、即買ってしまった謎の仕事をするうさぎの置き物と、一周まわって戻ってきて残っているのを確かめてから散々悩んだ末に購入した羊のブローチを持って帰る。余談だけれど、こういうとき心臓がない無機物に「お迎え」という言葉を用いて丁寧さを演出する表現、「この子」呼びと同じくらい得意ではないが、それがぬいぐるみ等、生き物のかたちをとっており、対象と購入者間に非常に親密さを感じさせるような文脈が存在する場合、また別の要因でその言葉を用いるにふさわしいと思えるシチュエーションが発生することもゼロではないと考えもする。時と場合によるってやつですね。
ひさびさにソルロンタン。塩を自分で入れるシステムを忘れており、小さい卓上塩ではなく、ビニール袋入りで売られている塩を継ぎ足す用の、家庭の戸棚にしまってあるような大きなサイズの塩の入った容器がでんと机上においてあるのをみて、一瞬中身か砂糖か塩かわからなくなってしまった。キムチもスープもやわらかい牛肉もじんわりおいしい。かためのお米が好きでスープに投入して食べたいと思いつつ、結局ぜんぶキムチやそのほかの小皿の付け合わせと一緒に食べてしまう。食べる前に蓋つきの米の入った容器を友人が振っていて、何目的かと思ったら韓国ではごはんが器にくっつかないよう、このようにして軽いおにぎり状にするひとが多い(?)とのことだった(友人はK-popアイドルのファン)。
ソルロンタン後、前回遊んだときと同様、おすすめの本を選んで欲しいと言われ、少し離れた立地の丸善へ向かった。腰を落ち着けて向き合っての会話も楽しいけれど、目的地から目的地までの少し長めの散歩の途中、変わる景色を目の端で捉えつつ、思いつくままの言葉をやりとりする時間もとても好き。趣味の話は隠れてしなければならないという空気を共有してきた時代を知るいにしえの女オタクとして、自分の好きなものについて恥じることなく、胸を張っておすすめできるようになったこと自体は良い傾向だとは思うけれど、それはそれとして、諸々の事情から他人に広くおすすめはしかねるが、自分のなかでずっと大事にし続けたい、大事にしていることについて他者からの共感も承認も求めない、という「好き」を抱えていく孤独を貫く生き方もある、という話ができてよかった。ゾーニングをどのようにやっていくかの個人的な話でもある。
到着した丸善は、新宿の紀伊國屋より海外文学棚が狭い気がした。小説だと、最近は海外翻訳ものorすでに亡くなっている昔の日本の作家ばかり読んでいるので、自然とおすすめする作家もしぼられる。ルシア・ベルリン、ジュンパ・ラヒリ、ミランダ・ジュライの3人と岸本佐知子氏のエッセイという、個人的にかなりてっぱんの作家の名前をあげた。わたしもなにか読みたかった本が、と思い返し、朝吹真理子『だいちょうことばめぐり』と高橋たか子『怒りの子』を購入。丸善は厚みのある紙のカバーをかけてくれるので、いつも頼んでしまいがち。紀伊國屋のロゴは好きだけれど、あの紙のカバーはそこまで好みではない。
女の一代記ものが好きだと思い出したので、いまさらながらにこれを読みたい。幸田文もそうだけれど、リズムがある文体を目から頭に入れるときの心地よさを冒頭から体験できる。