記憶

sodekasa
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 "物事のはじまりは、いつでも瓦礫の中にあります。"

―「すべてきみに宛てた手紙」長田弘,2001

 何もない一日がはじまるとき、わたしたちはふと思う。ただ、このわずかな瞬間にだけ、わたしたちが自由と呼ぶささやかな期待が、大気に入りまじって充ちているのではないかと。一生のなかで、わたしたちがほんとうに生きていられる時間はごくわずかだ。ただ、そのような朝が、けっして終わることなく続いてくれたならば―。

 昨日はまさにそのような一日であった。朝、うっすらと曇っている空を横目に、中挽きのコーヒー粉をフィルターに掬い入れる。半月ほど前に迎えたコーヒーメーカーが立てるコポコポとした音。昔ながらの味がそのまま保存されている、八個入りのかた揚げリングドーナツ。淹れたコーヒーを口に含み、ドーナツを齧ると、コーヒーのあたたかな苦みとバターの風味が、鼻腔を撫でるようにしてゆっくりと混じり合う。喉を鳴らしてそれらを飲み込み、ため息をつくと、不意に、微風のようななつかしさが、背中のずっと向こう側から流れ出てきて、胸の奥を通り、息となって体の中を吹き抜けてゆくのがわかる。郷愁が、遠くから吐き出される吐息によって立ち現れる。

 まったく同じ日は決して訪れることはないのに、わたしたちは時折、今わたしは、ひどくなつかしい時間の中を生きている、と思うことがある。たぶんそれは、そのようにして自由に生きられた時間が、地層のようにゆっくりと、わたしたちの奥を象りつづけているからだ。それらは時間という砂粒を素材とし、深く刻まれた記憶の皺に積もる。そうして積もった時間は、けっしてひとところにとどまることはなく、広大な海を揺蕩いながら、瓦礫となって記憶の砂浜へ漂着する。わたしたちの記憶は、このような構造でできあがっているのだと思う。

 瓦礫のように積もった時間を、棚のなかへ無造作に並べ入れ、そのうちのいくつかを抽き出す。なつかしいと感じるもののすべては、そのようにあいまいに積もった記憶のうちに、宛先のない連結を、ひいては数珠繋ぎの経絡をつくり出す機能を持っているのではないか。砂ばかりの砂浜から、いくつもの貝やヒトデを見つけてくる子供のように、なつかしいものたちは、わたしたちの記憶から、いくつもの時間を探し出してきてくれる。いつのまにか失くしてしまっていたものが、ひょんなことから見つかるような感覚。なつかしさの根は、そうしためぐり逢いの追体験をこそ水源としているのだろう。

 わたしたちが一生のなかで、ほんとうに生きていられると思えるような、なつかしい時間―。そうした時間をどれだけ持っているか、そして、そうした時間を抽き出すための探索者たちが、どれだけ、わたしたちのなかで生きつづけられているか。記憶の海の向こうがわの瓦礫たちは、ともすれば聞き落としてしまいそうなか細い声で、わたしたちに問いかける。その問いをより近くで聞くための使者、それが朝であり、コーヒーであり、リングドーナツだ。

 午後からは映画を見て過ごした。「ファンタスティック・ビースト」を2作品、通して見た。作中の魔法生物たちは、どれも現実には存在しない生きものたちだ。にもかかわらず、わたしは彼らの匂いや手触りがわかった。主人公の服の蔭から、苗のような姿のボウトラックルが這い出てきたとき、ボウトラックルのやわらかな足先が、わたしの肩に触れたように思った。

 主人公の相棒のジェイコブが、ともに合唱団で歌っている先輩に、顔も、姿形も、人柄も非常によく似ていて、いち早く彼に知らせたくなった。彼が生きていることを嬉しく思った。