いつからだろうか。素直に「自分を祝って欲しい」と言えなくなったのは。
人の誕生日をお祝いするのはとても楽しい。それはギブであると同時に、相手の喜ぶ顔が見たいというエゴでもあるから、エゴが上手く隠されているからだと思っていた。
「あなたをお祝いしたい。そしてそれは私も嬉しい。」
一見お互いのWin-Winのような構図になるわけである。
ところが、自分のことになるとどうしても祝ってもらうなんて畏れ多いと感じてしまう。
それは、自分の誕生日に誰かに祝ってもらいたいなどと言うのはエゴの押し付けでしかないと思っているからなんだろう。
そんな思いをずっと抱えている気がする。けど、いつからなんだろう?
少し、自分の心に耳を傾けてみる。
「孤独感」というキーワードが浮かび上がってくる。
そうだ、思い出した。
僕はふとした時に孤独感をよく味わう。
1日の終わりの、夕方と夜の間の時間。あるいは、ひとしきり誰かと楽しく過ごしている時間の後。
不思議なことに僕はこの孤独感が嫌だとは思っていない。
僕にとって孤独というのは、生きるために必要なエネルギーだとも思っている。
強烈な孤独感というのは、思考を深めさせてくれる。自分への問題提起をやめないでいてくれる。孤独というのはクリエイティブの源泉だと思う。
「持っていない」と感じるから、「欲しい」というエネルギーになる。
孤独があるから、繋がりを求める。
孤独を欲しているわけではないが、この時間を知らないままで生きていくことの方が想像できない。
僕は自己矛盾していると分かっているが、人の多面性なんてそんなもんだろうとも思っている。
繋がりを最も求めているくせに、孤独を愛するなんて僕はあまりにも極端だ。
でも、だから僕は孤独になりたい人の気持ちを聴くことができる。
繋がりを求めてどうしようもない人の気持ちも痛いほどわかる。
人はどうしたって矛盾する。でも僕はそんな美しさも醜さも大好きだ。
生誕祭自体は実は去年からアイデアとしてあったのだが、僕は自分を愛することができず、実現には至らなかった。
今の僕にとって、僕というのは孤独も繋がりも必要とするどうしようもなくワガママな人間だ。
そんなワガママもまるごと認めて、共に生きてみることにした。だから生誕祭をやることにした。
「結局はエゴか」という声が聞こえてくる。言いたいことは分かるが、でもそれの何が悪いんだろうか?
僕は、僕の孤独も繋がりを求める気持ちも、まるごと自分で抱えることをやめてみた。
そしたらゆかさんと通じ合い、生誕祭を開くという流れになったのである。
そして、嬉しいことに既に多くの方からの参加の連絡が届いている。本当にありがたいことだ。
想いだけでは世界は、現実は変わらないのかもしれない。
それでも、人の意思や願いというのは世界をも変える力があるんだってことを僕は信じている。
僕は、まるごと自分を世界に投げ出して委ねてみようと思う。
君も一緒にどうだ?
5/12(日)に敬愛する」長谷川コーチと生誕祭を行います。
繋がりある皆さんと共に祝い、そして感謝をお伝えしたいです。
出会ってくれて、ありがとう。
ご興味ある方からのご連絡お待ちしています!