仕事たのしくて文章書いてなかったなという話

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1年くらい前までの結構長い時間、仕事以外あんまりやってなくて、仕事を趣味にしすぎたなーと思っている。

厳密に言うと「仕事」っていうか、「お給料もらう代わりに時間拘束されてやること」が幸いにして自分にとって楽しい種類のタスク処理、という感じ。しかもいろんなことが起こるので飽きない。神ゲーかなと思うことがある。もちろん気の進まないサブクエみたいのもあるけど、まあそれはそれとして全然意味ないものでは多分ない(意味ないと思うことは意味ないと思いますっていったら聞き入れられる(同意してくれる)し、そもそも意味ないことやらせようとしてこない経営がありがたい)。

ゲームと違うのは、これが誰かに「こういうのやりたいんでしょ」とか「これやりごたえあるでしょ」と準備されたものじゃないということで、本当にそこがいい。普通にゲームやってるとどうしても制作した人の意図を思ってしまう。メタメタな視点で言ったらもしかしたら準備されたものかもしれないけれど(本当の意味での神ゲー)。

そしてそれぞれに学びというか、新しいことがある。神は細部に宿るのである。同じタスクと思っていたことを別の人にやってみてもらうと全然別の発見がある。アクションも起こそうと思えば起こせるし、じっとしていてもいい。分岐がすぎる。

そんなわけで体力はともかく概ね楽しく過ごしています。

ただ、その反面ここ数年どころではない結構な時間、Twitter以降といってもいいけれど、自分の文章を書く機会というのは急速に失われた。近くに思ってることを言える相手がいてそれをわかってもらえるとか、そもそも大人になって解像度が上がったらいろんなことをウロウロ考えなくなったとか、端的にひとりでPCに向き合って書く時間がなくなったとか、もあるけれど、書こうかなと思うきっかけ、誰かの文章にふれるということがなくなったのもある気がする。すごく短く端的に面白さがあるような文章や投稿(ある意味要領のいい文章というか)、あるいはきれいに体裁がととのえられた記事、あるいは冗長(に見えてしまう)対談やインタビュー、が目に入る文章の多くを占めていき、インターネット上の文章に興味を失ってしまった。 

かつて読んでいたテキストサイトの管理人たちは更新をしなくなって、読むものを見つけられなくなった。

こう書いていて思ったけれど、好む文章にだいぶ偏りがありますね。

しずかなインターネット礼賛みたいな感じになってしまうけれど、こういうところでお金の匂いがしない文章を読めること・書けることがまじでいいなと思う。多分実のあることは書かないし、やっぱMacbookのキーボード気持ちいいなーとかの快楽の延長で適当に書けることの貴重さ。

そういえばちょっと前に東京駅グランスタのキャラクターであるところのふくらむちゃんのTwitterアカウントが閉鎖されてしまうということで、振り返ってスクショしたなあということを思い出した。すでにふくらむちゃん自身は2021年とかにグランスタを退社してるんだけど、なんだろう、よかったんですよね、ふくらむちゃん。柱になったりして。

みたいな適当なこととか書いていこうかなと思います。