フィクションの中でのチベットは、主人公になにか不思議な能力を授けてくれる修行の場としてたびたび登場してきた。『ドクター・ストレンジ』の主人公が人知を超えた力を手に入れるのもチベットの仏院であり、『ジョジョの奇妙な冒険』第一部の吸血鬼を倒す波紋という技もチベット発祥のものとして描かれる。そういうこともあって、長年私の中のチベットのイメージは、高い山々に囲まれた中に華麗な装飾を施された寺院があって、長い布を巻いたお坊さんがいるという紋切り型の、自分とはうんとかけ離れた「不思議なもの」がある場所という枠を抜け出せないでいた。
ツェリン・ヤンキー『花と夢』は、チベットの都市・ラサのアパートで共同生活をしている四人の若い女性についての物語である。彼女たちはそれぞれの事情から故郷を離れ、都会にやってきて、ナイトクラブ「ばら」で働いている。作品では、菜の花、ツツジ、ハナゴマ、プリムラ、とお花の源氏名を持つ四人の子たちが夜の街で働くようになった経緯と、彼女たちに降りかかる出来事がまるで過去を回想するかように、一歩離れた場所から淡々と綴られていく。
ここで描かれているチベットは、想像していたような「不思議な場所」ではなかった。女性たちが搾取され、暴力に遭い、セックスワークへとたどり着くほかなくなる、多くの大都市でよく見られるような場所だった。チベットの文化は登場しても、「不思議なもの」は出てこない。
物語の焦点は、常にこの四人の生活に絞られる。夜に働いて、朝に帰って寝て、買い物に出かけて、家の掃除なんかもして、一緒にご飯を食べる。お互いを想い合って生活している子たちのストーリーである。都会の暴力に遭いながらも、そればかりに焦点が当てられているわけじゃない。四人に起こった出来事は、確かにそのどれもが耐え難い痛みを持っている。しかし、それを語る声は、外部から彼女たちを何らかの型に押し込めて主張することを拒否するような力を持っているように感じた。語りは、起こってしまった取り返しのつかない出来事に、なにかを投影することはしない。淡々と出来事が綴られていくのみである。そのことは、出来事を記した人、或いはこの作品を読んだ人が、彼女たちの苦痛を取り上げてしまうという暴力に抗っている。語りは、彼女たちが経験した出来事に、読者が勝手に苦痛を投影することを拒絶する。サバルタンである彼女たちの声なき声に、他者の声を充てがうことはしない。彼女たちの主体を奪うことはしない。読者は、ひたすらその語りに耳を澄ますことが求められる。
「不思議なもの」はなにも力を与えてはくれない。だけど、信仰はつねに彼女たちの中で息づいている。性暴力から守れなかったことを嘆く《菜の花》に《ツツジ》は次のようにいう。
「ねえアチャ[年上女性への呼称]、アチャが悲しむことはないよ。これはあたしの業が深いせいなんだから。額の皺を消すことができないように業をくつがえすことはできないってことわざにも言うでしょ」(p. 140)
自分のせいではなく、業のせい。今の自分が計り知れない前世の行いのせいだから、と自らに起こった苦痛を受け入れる。業のせいといったり、いわれたりすることで、彼女たちは出来事を受け入れる。今辛いのは業のせいだから今世では来世のために善行を積もう、と辛い現実を生きていくための心の支えとして登場する信仰は、諦念とはまた違った印象を抱かせる。ラストシーンで、《ツツジ》は望みを見るようにして寺院にお参りする。そして、悲しい出来事があったあと、彼女は再びお寺に行く。その姿は、無力な信仰のようでいて、切実な祈りを持っている。その祈りが、まぶしい希望のように目に映った。彼女たちの信仰は、はしばしで見られる人を想う優しさや、布施する心、人を許す心の発露となっている存在なのかもしれないと思った。どうしようもない厄災を生き延びるための希望としての宗教と、人間としての尊厳を他者にも自分にも見失わない指針となる宗教の、「人を救う」という根源が見てとれたような気がしてならない。そこにあるのは、人知を超えた「不思議なもの」なんてものではなく、人間という存在のどうしようもないほどに謙虚な力であった。
※本文は「私の一冊 Advent Calendar 2024」企画の担当記事である