五年ほど前だろうか。新しき村が100年を迎えたことを本で読んで知り、行ってみたくなった。新しき村は武者小路実篤が「人類共生」の夢を掲げて作った農村共同体で、最初宮崎県にあったがダム建設のために移転して今は埼玉県にある。村民にはそれぞれ係が与えられ、その仕事さえすればあとの時間は自由に過ごしていいことになっているため、これまでに多くの芸術家が入村しては去っていった。最盛期には村の中には幼稚園もあったという。
わたしは当時の愛車『フィットちゃん』(没2019)を走らせ、村に向かった。あまり関係のないことだが、わたしは車の運転が好きである。あまり信号のない道をするする走るのが特に好きだ。平日の昼間だったからか、圏央道はすいていた。爽やかな天気で、ドライブ日和。ナビに任せて田舎道を走っていくと、道を挟んで左右に木の柱が立っていた。二本の柱には大きな文字でこう書かれていた。
「この門に入るものは自己と他人の」「生命を尊重しなければならない」
村の境界であるこの柱は、田園風景の中にすっかり溶け込んでいた。指定された駐車場に車を止め、新しき村美術館に向かった。入り口の扉を押したり引いたりしたが、開かない。鍵がかかっている? 今日は休館日ではないはずなのに、と混乱しながらうろうろしていると、ななめ向かいの建物から、一人の女性が顔を出した。「今開けますね」と、女性は慌てた様子で出てきて鍵を開けてくれた。美術館の中には実篤の著書や蔵書のみならず、プライベートなものと思われるアルバムや手紙なども置かれている。
「これも自由に観てくださいね」と案内されたのは、VHSなどの視聴覚資料だった。市販のものではなく、手書きのラベルが貼ってある。テレビ番組を一般家庭で録画したようなものだった。わたしは、NHKのドキュメンタリー番組のラベルが掛かれたVHSを手に取った。置かれていたテレビは、VHSの差込口がモニター下部についているテレビデオタイプのものだ。しかし電源を入れても、うんともすんともいわない。壊れている? 格闘の末にさきほどの女性を呼ぶと「ごめんなさい」といって、テレビの裏をがさごそ触りだした。しばらくすると、ぽっと画面がついた。そもそもコードがコンセントにささっていなかったようだ。ドキュメンタリー番組の放送日は、私が生まれる前だったと思う。実際に新しき村に住んでいた女性が、インタビューに答えていた。最初、新しき村に入ることを家族には反対された、と彼女は話していた。
一通り見終えると、外に出た。さきほど女性が出てきた斜め向かいの建物から、今度は男性が顔を出し、「ごはんを一緒にどうですか」と誘ってくれた。美術館担当(?)の女性も、きっとお昼ご飯を食べていたところだったのだ、と申し訳ない気持ちになった。男性は「自分が食事係です」と名乗った。分担制は今も続いているのだ。案内された椅子に座り、青菜の胡麻和えをいただいた。優しい味付け。白米もほんのりあまくておいしかった。最後に緑茶をいただくと、「これは村のお茶です」と教えてくれた。
初めて来たことを話すと、村を案内してくれるという。男性はまず、しいたけの栽培を見せてくれた。しいたけは、村の収入源の一つである。(今もやっているかはわからない)それから、田んぼ。「今日は係がいなくて案内できないのですが」と男性は話した。稲が青々としていた。米も収入源だ。畑には、植えたのか自生したのかわからないけれど可愛らしい花が咲いていた。男性は花を摘むと「持って行っていいよ」と手渡してくれた。帰りに売店で新しき村の冊子と新茶を買った。お昼にいただいたお茶がとてもおいしかったからだ。
帰宅すると花を瓶に生け、お茶を入れて味わった。親から電話がきたので話したところ、「次は一人で行かないように」と叱られた。そのとき、ドキュメンタリー番組に出ていた女性のことを思い出した。きっとあの人も親からこんな風にいわれたのではないかと思う。
村の居住者は年々減り、今は3人。多くの人に反対されながら実篤が目指した理想郷は、果たして成功したといえるのか。わたしにはわからない。けれど、村には確かにそこに生きてきた人の足跡がある。
これまでわたしが携わってきた仕事は、SNSでよく『底辺の仕事』と揶揄される。そんなとき、実篤の言葉を思い出す。
「この道より われを生かす道なし この道をゆく」
この道をゆく。