まだメモの段階で、今後加筆修正するかもしれないが、とりあえず書き記す。今後もこの記事に適当に加筆したり修正したりメモを加えたりして、最終的には10万文字程度の随筆に仕上げようかと画策中。
ゲームのシナリオには3つの方程式があり、これを解ければ基本は面白くなる。
が、「良くなる」の意味ではない。「良いもの」に方程式はない。
ところがなぜか「面白いもの」には方程式がある。これからここに書き記すテクストがその方程式となるが、厳密に言えば「面白いゲームを作れる方程式」であって「面白いゲームになる方程式」ではない。「面白いゲームになる」と「面白いゲームを作れる」は違う。まずは、作れなければ始まらず、勝手に「面白いゲーム」に育ってくれるものなどない。
方程式は次の通り。
ユーザーの感情制御
構造への分解、データ化
制作フロー制御
不思議なことに、「物語そのもの」が含まれていない。どういうことかと言えば、物語がどんなものであろうが、「ユーザーの感情制御」ができていれば面白くなるし、その面白いゲームを実際に作れるかどうかは、「構造への分解」「制作フロー制御」によってくる。物語など、僕がプライベートでさんざん書いているが、面白くはない。物語なんてのは、そういうものだ。
第一章 ユーザーの感情制御
「ユーザーの感情制御」は一般的なTVドラマ等では「感情曲線」と呼ばれることが多い。これは『スローターハウス5 (Slaughterhouse-Five)』『猫のゆりかご(Cat's Cradle)』で有名なSF作家、カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut)の提唱だと言われている。「ヴォネガットの感情曲線」は縦軸にGood Fortune(幸運)から Ill Fortune(不運)までの登場人物の運命や幸福度、横軸に「始まり」から「終わり」までの物語の時間を取った折れ線グラフになる。現在は、感情曲線と言えば、視聴者の感情の起伏をメインに語られることが多いが、概ね同じ意味だと考えていい。
映画の場合は2時間、小説でも長くとも8時間程度なので、これをそのまま50時間規模のゲームに当てはめると、不幸な時間が8時間続いたりすることになるので、テクニック的には違うものになるが、考え方は同じだろう。
ストーリーの良し悪しだけを問うならば、感情制御などは考えなくても良いはずだが、不思議なことにドストエフスキーの『罪と罰』にも、ユゴーの『レ・ミゼラブル』にも感情曲線が当てはまるので、ある程度は普遍的なものと考えていい。ただし、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にはやや当てはまらない。また、『百年の孤独』ガルシア=マルケス、『フィネガンズ・ウェイク』ジェイムズ・ジョイス、『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ等のモダニズム/ポストモダニズム作品では単純には成立しなくなっている。リディア・デイヴィスやルシア・ベルリンのような、現代の散文的(プロットに重きを置かない)あるいはフラグメンタリー(断片的)な作風の作家にも見られない。すなわち現代の文芸好きが好んで手を出すようなものにはあまり見ることができない。
なので、「感情曲線」を金科玉条として扱うべきではなく、飽くまでも「感情曲線に依った作品」というジャンルとして捉えるべきだ。間違っても「感情曲線が云々だから、作品としては劣っている」などの視点で作品を捉えるべきではない。感情を巧みに操作した作品がどんなに面白くとも、それは単に「面白い」だけで、「良い」とは違う。ハイエナを撃って、滑稽な動きや妙な音を立てて倒れる様子が描かれていたら「面白い」かもしれないが、「良い」ではない。シナリオライターという職業を続けているとこの感情曲線的なものを内面化し、ひとの作品も同じ視点で見てしまうことが少なくない。とくに新人や若手に対して、「感情曲線を意識すれば面白くなる」とアドバイスしてしまうことがよくあるが、これも良し悪しであるとは思う。
とは言え、実際に中身のしっかりした骨太な物語よりも、感情曲線を上手にコントロールした中身のない作品のほうが視聴者の評価が高くなる。現代ではレビューサイトの★の数が物語の良し悪しであり、後者のほうが良い作品ということになる。
†
ではどうやって感情をコントロールするかと言えば、最も簡単なものはブレイク・スナイダーなどの提唱したテンプレートに即することだろう。ただし、普通に学生時代から漫画やアニメに浸って自分でもそれらを書く人だったら、普通に身についている。とくに同人界隈でこれらを模倣して育ったひとは、おそらくスナイダーなど読む必要はない。
実践的に見てみよう。
大きな流れとしては、主人公の喪失感と、それを取り返すことが物語の軸になることが多い。
たとえば、
「賢者の石を見つけ、失った元の肉体と弟を取り戻す」
「鬼にされた妹を人間に戻す」
「両面宿儺の指を消滅させる」
「愛という言葉の意味と、失われた人間の感情を取り戻す」
「両親を失い叔母にも見捨てられた少女がアルプスの山小屋で暮らし始める」
などである。
これらは物語全体を駆動する大きな軸になるが、実際にシナリオを書く際にはもっと小さな単位で、アニメや漫画ならその話のなかで主人公(と、それに感情移入した視聴者)をリードするきっかけが必要になる。たとえば冒頭で「不良に殴られた」ならば、「不良を殴り返す」が目的となり、これを解決するのはその話のラストになる。その間、「なぜ殴られたか」「殴ったやつはどこに行ったか」などの謎を解くことになり、その過程で「不良は殴らざるを得なかった」「別の目的がある」「実は異星人に操られていた」「不良は宇宙人のエージェントで云々」といった物語が展開する。
このように、物語は「不良に殴られた」などの「主人公の動機を駆動するエピソード」から始まる。そしてラストに、「じつは不良は幼稚園時代の仲良しで、滅びゆく地球から主人公を助けようとしたが、それを直接伝えることは宇宙連邦の定めた法により禁じられていたので、殴るしかなかった」が明らかになる。その過程で、主人公と不良それぞれの家が抱えた問題や地球の常識に潜む不条理が描かれるが、そこが物語のテーマになる。ここが最も重要な部分で、実はラストに明らかになる宇宙人の話はどうでも良いのである。
ところが、多くのアマチュア文筆家は、このどうでもいい話から物語を書き始める。どうでもいい不良と宇宙人の設定をことこまかく詰めて、そこからプロットを起こすので、「主人公が不良に殴られる」という魅力的な冒頭を思いつくことがない。下手したら「夢のなかにメッセージが送られてくる」から書き始めることになる。初手から感情の駆動軸が成立していない。「なぜ殴られたか」の謎を解きながら目にする「地球の常識の不条理」も「不良の家庭の問題」も「不良が経験した壮絶ないじめ」も描かれず、「夢のなかの存在」がいちいち指し示すことになる。
ゲームやアニメの制作現場は多くの場合プロット主導で、「不良は幼馴染」「不良は宇宙人に操られている」などの設定が決まっているため、必然的にライターは担当する話の要件を満たすために、たとえば「水族館でシャチの水槽に落とされて、それを敵であるはずの不良から助けられ、いったいなぜ?と気がつく回」の冒頭で、「親戚から水族館の入場券をもらう」などという凡庸なエピソードを書いてしまう。
特にゲームにはその傾向が強い。「果たして高校生の主人公が水族館の入場券をどう入手し、立川の高校から鴨川シーワールドまでどう移動するか」というロジックで考えてしまうために、「入場券を入手する」から書いてしまう。漫画やアニメのような飛躍が許されないため、とも言えるが、実際には現場にシナリオライターとして訓練されたひとが少ないことが原因だろう。
「感情による駆動」を前提とすると、先述のような作劇は大きな間違いで、「入場券を入手する場面」から始まるより、「入場券を奪われる場面」から始まったほうがいい。その券は意中のクラスメイトと行くためにブタの貯金箱を割って手に入れたもので、当日は従兄弟が車を出してくれて、などという退屈な説明は2秒で挿入すればいい。本編に入ると奪われた入場券を追ってチャリンコで走り回るのだが、途中で意中のひとと出くわし、「チケットが用意できなかったら、出来杉君に映画に誘われてるから・・・」などと打ち明けられ・・・と、展開する。ただしこの冒頭だと入場券を取り戻した時点でリードが途切れるため、そこをうまく次へと繋ぐテクニックは必要になる。
――かくしてチケットを奪われた主人公は、ネットで手に入れたニセチケットで水族館に入るのだったが、入場後にそれがバレて係員に追い回され、挙げ句、シャチの水槽に落ちる――
リアリティラインとしては決して高くはないが、ほとんどの漫画やアニメにはそのリアリティラインを突破できるキャラクターが用意されている。友人にスーパーハッカーや超金持ちがいるならばそれを利用すればいいし、案外、なんとかなる。そこそこリアルなドラマを見ても、スーパーハッカーや超金持ちが用意されているケースが多いので、そこを意識して見てみるのも面白いのではないだろうか。
「入場券を奪われる」よりもおとなしめのものとしては、「意中の人がシャチ大好き」「憧れのアイドルがオルカショーのゲストで登場」「サメ映画を撮りたい」などが考えられるが、これだという冒頭が決まれば、あとは石が転がるように全体が決まるだろう。「意中の人がシャチ大好き」「憧れのアイドルがオルカショーのゲストで登場」「サメ映画を撮りたい」のいずれにしても、なんとなく起きることが想像できる点に留意してほしい。
あとなんか書き足して3万文字までふくらませる。
第二章 構造への分解、データ化
さて、物語を設定しても、それがゲームに実装されなければどうしようもない。
たとえばドラゴンクエストだったら、
町で起きる突発的なイベント
ダンジョンの入口や途中で発生するイベント
ボスの登場時の会話
ボス撃破後のイベント・・・
などのイベントシーンだけで物語を書ききらなければいけない。
ソシャゲの場合だと、
ダンジョンに入った時点
ボスを倒した時点
と、それぞれの立ち絵での会話しかないケースもある。
ドラクエや一般的なソシャゲは、表現できる範囲は狭いがシンプルでわかりやすい。他方、たとえばタクティクス・オウガの「ウォーレン・レポート」のようにアウトゲームに物語を逃がす場合も少なくなく、シンプルなドラクエと比べると格段に表現の幅は広がるが、「どこをアウトゲームに切り出すか」という設計が必要になる。タクティクス・オウガでは、バトル内のイベントや会話で近景となるキャラ同士の掛け合い、城や砦でのカットシーンで中景となる騎士や貴族たちの群像劇、アウトゲームのレポートや章開始時のナレーションで物語を俯瞰した遠景と書き分けられている。
また、トライアングル・ストラテジーなどでは投票場面に情報を逃がし、《投票のための情報》《メモなどのアウトゲームでの情報》《町のなかでの会話》、と、多角的なアプローチからひとつの物語が紡ぎ出されている。シナリオ執筆の難易度はかなり高く、どの情報をどこに配置すればユーザーに届くかなどのコントロールが必要になる。先に述べた、「不良から殴られ、仕返しをしてやろうと追いかけていたら、地球規模の事件に到達する」のケースは、ドラクエでは実装しやすく、ソシャゲだと難易度がやや上がり、タクティクス・オウガのシステムとは相性がいいが、トライアングル・ストラテジーには合わないように思える。
トライアングル・ストラテジーの場合、多数のキャラクターが投票で物事を決めるために、「自分と不良」という1対1の関係を追うのには向かない。投票の結果で「不良のことは忘れよう」となったら、ストーリーそのものが成立しない・・・が、これも考え方次第で、たとえば、『コータローまかり通る』や『ちょっとヨロシク』、『賭ケグルイ』、『帝一の國』のように部活が入り乱れて群雄割拠しているようなものだったら、トライアングル・ストラテジーのシステムにもマッチする。その線で考えるなら『帝一の國』をトライアングル・ストラテジーのシステムでゲーム化するのは非常に面白そうだと感じるし、榊原光明が宇宙人だったという衝撃のラストも(原作ファンからの罵声を無視すれば)悪くはない。
ゲームの制作現場では、先にも書いた通り、多くのアマチュア文士が「宇宙人の設定」こそを物語の核であると考えているため、「不良に殴られた」をノイズとして排除しようとする。実際には「宇宙人」がノイズであることは明らかなのだが、そのゲームを商品として考えれば「宇宙人」を売っているのだから当然と言えば当然なのだが、やや納得しかねている。「宇宙人」ではわかりにくいだろうが、ありがちな言葉に置き換えるなら「魔王」だ。「魔王」などは物語にとってどうでも良いノイズでしかない。『帝一の國』では大鷹弾や東郷菊馬、そして主人公赤場帝一の背後にある社会構造がテーマであって、そこに宇宙人や魔王がいてもノイズだ。
そしてまた、「不良に殴られる」も、そも主人公の感情軸を際立たせるための冒頭だった。そんなものは好きに変えればよく、「不良に殴られる」にこだわる必要はどこにもない。しかし、作品として読者をリードするには、そのゲーム全体、あるいは章全体、あるいはエピソード全体を駆動するための仕掛けは必要になる。「不良に殴られる」という小ネタを挟みたくてやっているわけではなく、これを削除されるとゲーム全体の感情誘導が破綻する。また、そうやって破綻しただろうゲームも少なくない。
†
ゲームで実装可能な範囲によってシナリオを調整するのは避けられない。
たとえばドラゴンクエストⅣの第五章に、有名な村の蹂躙からのスタートがあるが、ファミコン版では地下に匿われている状態で、直接目にせずに進行した。いまのAAAタイトルなら3Dのムービーシーンを入れるだろうし、逆にソシャゲの場合は止め絵+ナレーションでの実装となるだろう。ただし「村が滅ぼされた」はドラクエのⅠ~Ⅲで培ってきた「村=安らぎの場所」というイメージを破壊するからこそインパクトがあるものであって、その後定番化した「初期村の破壊」にユーザーを焚きつけるだけの訴求力があるかどうかは怪しい。
「平和な村」という印象を先に与えていなければ、破壊しても意味はないわけだから、本当の意味での冒頭には向かない。ドラクエⅣでも、破壊の前に村を歩けて(勇者の身代わりになって死んでしまう)シンシアとの会話があったはずだ。
ゲームでは――おそらくアニメでもそうだと思うが――村や島が滅びるよりも、たったひとりの肉親やペットが死んだほうがユーザーの心を動かしやすい。ドラクエⅣが与えたインパクトも、生まれた村が滅んだことよりも、シンシアが身代わりになって死んだことのほうが大きい。これをⅣでは、主人公は地下で音だけ聞いて過ごすのだが、限られたアセットのなかで最大の効果を得る見事な采配だった。更に効果を上げたいなら「シンシアと喧嘩して仲直りできてなかった」「シンシアはなにか告白しようとしていた」「自分が悪の尖兵を村に案内した」などを足せば主人公の後悔や無念を高める。また、マイナスばかりだと離脱するユーザーが現れるので、「生きている可能性を示唆する」「伝説の勇者から力を与えられる」などがあっても良い。いやいや、まだ生ぬるい、目の前で首を引きちぎれば更に主人公の動機が高まるだろう――などというところにまで行ってしまうと、こんどは単にシナリオライターがユーザーのヘイトを集めるだけなので、やめたほうがいい。ドラクエⅣは非常にもったいないことに、シンシアの死は実質使い捨てられた。毎晩のようにシンシアが夢に出てきて
「今度誕生日でしょう?
ケーキを焼くから楽しみにしててね・・・それから・・・
ううん、誕生日が来たら話すわ」
などと言ったりしたら魔王への憎しみは否応なく高まると思うのだが、生き返るはずのないシンシアで引っ張るのも辛いか。
と、見てきたように、「村が蹂躙される」という場面を書くとしても、さまざまな書き方とオプションがある。作品によってタクティクス・オウガの冒頭のようにカットシーンで実装することもあれば、ドラクエXのように3Dのシネマティクスで入れることもある。通常は村が滅びるだけでは弱く、「何が奪われたのか」を描く必要があり、そこにどんなエピソードを選び、それはカットシーンで書くのか、オープニングのテキストロールで書くのか、アウトゲームなのか、作品の仕様によって変化する。
†
ではここで、サンプルとなるゲームを想定して考えてみよう。
そのゲームは、ドラゴンクエストのようにフィールドを歩いて、町の人に話を聞いたり、あるいは突発的に起きるカットシーンなどで物語が進む。他にも「キャラクター図鑑」があり、これはキャタクターとの親密度で順次解放され、フィールドでものをチェックして入手する「メモ(フィールドで集めた情報)」があり、イベントの進行で自動的に入手する「ジャーナル(歴史上の事件などのまとめ)」があるとする。その他に、章の切り替えの際には「戦略図付きのナレーション」があり、町やNPCの名前にカーソルをあわせたさいの「ヘルプ文」がある。また、NPCに対してアイテムを使った際のリアクションがある。複雑なようだが、割とありがちなパターンである。
このゲームでシナリオライターが書くテキストを簡単にまとめると
通常の会話文
カットシーンの会話文
キャラクター図鑑(順次解放される)
メモ
ジャーナル
ナレーション
ヘルプ文
主人公の行動に対するリアクション
となる。
他にも一般的には
移動中に自動再生されるパーティとの会話
バトル中の会話
サブシステムへの導入
あたりが一般的になっており、RPGの標準セットと言ってもまあ大げさではない。
更には
バトルで勝利した際の一言メッセージ
技や魔法を使う際の詠唱テキスト
モンスターやアイテムのフレバーテキスト
などがある。
ところがゲーム制作者のなかにも、ゲームのテキストがどういう構成になっているか意識していない者もおり、テキストが正しく発注されるとは限らないのでよく困っている。たとえば「カットシーンの会話文」と「移動中に自動再生されるパーティとの会話」は明確に別の仕様であり、1セリフの長さやヴォイスが付くかどうか、全体での長さ、早送りが可能か、見逃した場合に再度読むことができるかなどの条件が変わる。ここを把握しておかないと、「移動中に自動再生されるパーティとの会話」でストーリー中で必須の情報を語り、挙げ句そのセリフはモンスターとのエンカウントで途切れて2度と読めないという間抜けな事態に陥る。
完成したゲームを見れば、そこにそのテキストを書くべきではないというのは明らかなのだが、仕様の策定段階ではテキストの構成まで手が回っていないことが多く、その状態でシナリオが発注されるせいでこの間抜けな事故が起きる。現場でいちど地獄を見れば次からは気をつけるのだが、多くの場合次のプロジェクトでは座組が変わり、また同じ地獄を見ることになる。
ならばシナリオを専門に扱ってきたスタッフなら、そんなミスもないのではないか? と問われると、実はそうでもなくて、人によって様々な修羅場をくぐってきているので、「パーティ会話をカットシーンで実装するしかなかった(?)」などのノウハウがそのまま持ち込まれるケースがある。結果、パーティ会話がカットシーンとして発注され、収録のデッドになってそれに気が付き、歩きながら2分ほど必須の情報がキャンセルしようもないまま垂れ流される、のような事態が発生することも稀に起こり得る。これはかなり早い段階で気付かなければいけない問題だが、シナリオ担当がその仕様決定の場に居合わせるケースがそもそも少ない。
これらのテキストは、普通のRPGではだいたい100万文字は下らない程度になり、これは長編小説5本分に相当する。200万文字以上というものも少なくない。また、ゲームの初期段階で文字数をはっきりと見積もれないケースも少なくはないが、正直、文字数を見積もったら制作費が出ない。100万文字を1文字10円で発注するとしたら1000万円になる。グロスでライターを半年拘束すれば良いと考えるのだろうが、手が早いライターでも1日に5千文字程度だ。せいぜい60万文字しか書けない。それも初稿の速度であって、クオリティをあげて、エピソード間の辻褄を合わせたりしていると日産はもっと下がる。テキスト周辺の仕様変更で、実は制作費に換算すると数千万単位の金が飛んでいるケースもあるが、仕様も見積もりもいい加減なことが多く、なかなか表面化しにくい。
ユーザーサービスとしてのストーリー回収
あとで書く 5千文字くらい
ロジック的リアリティラインと感覚的リアリティライン
あとで書く 5千文字くらい
データとスクリプト
あとで書く 5千文字くらい
第三章 サンプルシナリオ
あとで書く
2~3万文字
第三章 制作フロー制御
さて、仕様が決まったらテキストをデータ化していくわけだが、そこで重要になるのが制作フローで、ここに気を配っていないと簡単にプロジェクトが止まる。いまのゲームはUnityやUnrealEngineなどのゲームエンジンを使って、レベデザイナーというステージをデザインするひとが直接テキストでもなんでも仕込んでいけるのだが、そこを管理するひとがいないと、いつの間にかそこは魔窟になり、そこで巻き戻しが発生するとまた制作費にして数千万が簡単に飛んでいってしまい、それも概ね「こんなトラップがあるとは気が付かなかった」のように納得されてしまうのだが、実際には防げる問題だ。その数千万は、ワークフローが考えられていれば失われることはなかったし、他の箇所のクオリティアップに使えた資金だ。
テキストには翻訳も必要になるし、ボイスやリップシンクが必要になるケースも多い。翻訳は外部の会社に出すのだが、レベルデザイナーがUnrealEngineに組み込んだものを翻訳に出すわけではなく、大元の文章を出すわけだから、それが適切に管理されてないといけない。各国語版のテキストをどう振り分けて表示するかの問題も、各レベルデザイナーが勝手に行うべきものでもないが、上に決めるひとがいないとレベルデザイナーは「仮に入れてきました」とか言って、これをやってしまう。テキストの仕事を請け負っていると、この「間に立ってロジックを組み立てるひと」がいないケースにはよく出くわす。シナリオライターから直でレベルデザイナーなりスクリプターなりにテキストが渡り、「で? 翻訳はどうするの?」と後で手が止まることがざらにある。もちろん熟練したシナリオライターならその解決法はわかるのだが、それ即ち「ひとり専門のスタッフを置く」であるから、予算も割けないし人材もいないので往々にして却下となる。
シナリオ実装モデル
あとで書く 図説つき 3千文字くらい
シナリオチームの構成

説明あとで書く 5千文字くらい
データ設計
RPGでは町の人が決まり切ったセリフを吐くわけではなく、状況に応じて刻々と内容は変化していく。昔はこれをif文を使ってケース分けして書いていたが、複数のライターがクエスト用のテキストを書いて、「このクエストではこのセリフ」「こっちのクエストはこのセリフ」とそれぞれにレベルデザイナーに注文をつけていると、「◯◯のクエストが進行しないとどこそこのカギが手に入らないのに、✕✕のクエストのセリフが発生して先に進めない」というデッドロックが容易に発生しうる。
この、肥大化するRPGのテキストをどう捌くかという問題に対しては、クエスト制という明確な答えが出ている。クエスト制のゲームでは従来のようにキャラクター主体でスクリプトが設定されるのではなく、キャラクターは単に主人公が請け負ったクエストに設定されたセリフを読むような挙動を見せる。
こちらが旧来のゲームのシナリオ実装で・・・

こちらがクエスト制での実装になる

見て分かる通り、NPCには通常時のセリフしか設定されていない。クエストの際のセリフは主人公が「クエストの台本」のようなものを持っていて、それを提示してNPCに読ませている。複数のクエストが走っていた場合、FFXIでは話しかけるごとに順番に違う台本を読んでもらい、World of Warcraft では会話の前にUIでどのクエストの情報を喋るかを選択する。ストーリーがすべてクエストに分解されて実装されることになり、これによって物語が受ける制約もあるが、いまのところ大規模なゲームのテキストを捌くには有益な方法であると思われる。
かつては、連続クエストのようなイベントも、ひとつのクエストが終わったら、そのクエストの中から次のクエストをトリガーする、というような仕組みが多かったが、いまは逆で、《次に発生するクエスト》が《前提となるクエスト》が終了したかどうかを外から監視して、自発的に発生する。こうしておくことで、新しいクエストを追加する際に、ほかのクエストの処理に変更を加える必要がない。いまのMMORPGなどは、長いものでは20年を超える歴史がある。そこにクエストを追加する際に、いちいち古いクエストの内容まで書き換えていては、どんな事故が起きるかわからない。それにダウンロードコンテンツなどで、クエストを拡張していくことを考えると、「前提クエストをすでに済ませた人」のことを考えるべきで、そうなるとクエストのトリガーを前のクエストに仕込むことはできなくなる。
同様に、クエスト専用のキーアイテム(ドラクエの「だいじなもの」)も、昔は専用のアイテムのデータを用意して、それをアイテム袋に加える、という処理をしていたが、現在はクエストデータのなかにキーアイテムがバーチャルに用意され、アイテム袋を開いたときに自動でクエストのデータを読んで、そこに設定されたアイテムも並ぶようになっている。
同様に、クエストで必要となるモンスターがドロップするアイテムも、クエストのなかに指定されている。通常のアイテムはモンスターデータのなかに含まれることが多いが、それとは別枠で「このクエストを受けていたら、このマップのこのモンスターがこれこれのアイテムをドロップする」というのがクエストデータの中に記録されている。
これらはクエストをオブジェクトとしてゲーム本体から切り離すための措置で、これによって「クエストデータ」というものを追加すれば、既存の他のデータに変更を加えずとも物語が拡張できるように作られている。極論を言えば、クエスト報酬の装備品なども、クエストデータのなかに持つことができるが、さすがにそこは別になっているような気がしている。ただしこれは、ゲームを遊んでみての感触なので、厳密なことはわからない。自分が制作者だとしたら、さすがに装備品は切り分ける気がする。近代的なゲームであればアイテムはインスタンス化したものがインベントリに入っているわけだから、これをクエストデータ内に持つか、アイテムデータを参照するかは、実質管理フローだけの問題のような気がするが、それでもアイテム一覧などのデータを取るケースを考えると、アイテムはアイテムで外に出したほうがいい。
†
ゲームの制作初期に必要となるのは、世界観を構築するための設定資料であるが、次に必要になるのはデータの雛形だ。メモやジャーナルやヘルプ文などは、どのみち必要になるので、物語の設定部分はそこに逃がす前提で考えたほうがいい。シナリオライターからこれを言い出すと「このひと、なんでそんなにジャーナルにこだわるんだろう」と思われてしまうが、ジャーナルにこだわっているのではない。こちらで提案しなくても、いずれは「歴史図鑑を追加しました」みたいなことを言い出して、そちらのテキストの発注も来る。どの規模のゲームかを見れば、聞かなくても想像はつく。後で発注されるよりは、最初に想定しておけば、わざわざカットシーンに加えたくないセリフを省略できるし、そのぶんのクオリティを犠牲にしてしまったことを後になって悔やまずに済む。
他にも、まずはテキストが決まらないと動かない部分が、実は少なくない。正直、「ジャーナルは何文字まで書けますか?」と聞くより「ジャーナルは何文字程度で行きたいです」と伝えた方が話が早いケースが少なくない。本来ならディレクターの仕事だが、テキストに関する部分はシナリオディレクターが支える部分がある。もちろん、シナリオディレクターが存在していれば、の場合で、いない場合、あるいは文章を書きたいだけのひとがそこに座ってる場合も少なくない。シナリオディレクターは単に文章が好きという人より、物語の構造分析やコンピューターのデータ構造に詳しい人のほうが向く。が、なかなかこの人材はいない。何度も言うが、プロジェクトの起動は早ければ早いほど制作費は抑えられる。ジャーナルの文字数が何文字か悩んでる時間で消えていく制作費は、別の方に回すべきだ。翻訳、法務チェック、校閲、レビュー、音声収録、モーションキャプチャ-、リップシンクと、やるべきことは無数にある。シナリオが遅れるとこれらのすべてが遅れるが、シナリオが遅れる原因は執筆速度よりも仕様決定までの待ち時間や巻き戻しのほうが多い。
ぶっちゃけシナリオは感情制御さえうまく行っていれば、中身はなんだろうが成立する。そのなかにいかに文芸的な価値を練り込めるかはライターの腕次第だ。『帝一の國』で大鷹弾や東郷菊馬の背景が描かれる場面があるが、そこが物語の中心核になる。ラスボスが魔王なのか宇宙人なのかはどうでもいい。そこで詰まって制作そのものを遅らせるべきではない。
ただし、どうしようもなくつまらないシナリオはある。そこに足りていないのは騎士やお姫様がどうしたとか、戦争がどうなった、公爵がなにをした、ではなく「不良に殴られた」だ。多くの人がつまらないシナリオを修正するために「騎士様の動機」「公爵の陰謀」「ラスボスの目的」を強化しようとするが、そんなものはクソほどどうでもいい。政治の群像劇を緻密に設計しても、現実の独裁者はロジックがなくデタラメをやらかす。それを描いた作品――『族長の秋』(ガブリエル・ガルシア=マルケス)、『キャッチ=22』(ジョセフ・ヘラー)など――も少なくない。それぞれ半世紀も昔の作品だというのに、ゲームはなぜ足踏みしているのだ。主人公の大切なチケットを奪う不良を出せばそれだけでいい。「チケットの価値」すらどうでもいい。奪われるのはいっそどんぐりでもいい。
そのうえでやるべきことは、物語の構造化、ならびに制作フローへの最適化、だ。
その他のTOPIC
ゲームシナリオの発注
テキストの工数・文字数の見積もり
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改行・禁則問題
参考図書
アフリカの緑の丘 (Green Hills of Africa) 1935 アーネスト・ヘミングウェイ