なぜ『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』を見なかったか

さよならおやすみ
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公開:2025/11/9

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』は、最初の映画だけ見て、ぜったい好きなやつだと思った。

庵野秀明はポストモダンの騎手だと言って良い。演劇では、寺山修司の過剰な象徴から、野田秀樹のメタ化した象徴の解体へと、モダニズム→ポストモダンと進行したが、アニメでは押井守のモダニズム→庵野秀明のポストモダンと進行した。その後の新海誠・細田守のポスト・ジブリ作品群はここでは仮に『新・叙情主義』として扱う。そこには寺山が過剰に盛る前の象徴が息づいている。いったいなにをしでかしてくれたんだ、寺山は。ちなみに『旧・叙情主義』は川端康成あたりをイメージしている。

モダニズムは解釈が有効だったが、ポストモダンは解釈が「解釈芸」に昇華された。押井守の『天使のたまご』は当時の象徴主義的モダニズムの観点からは批判を浴びたが、じつはポストモダン作品として見ると、時代の先駆けだったとみなせなくもない。ただ、これに先駆けてモダニズムからポストモダンへの橋渡しをしたアニメとしては『悲しみのベラドンナ』がある。

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』は(1話と予告編を観た限り)、『新・叙情主義』の匂いを醸しつつも、ベースはポストモダンである気がした。ポストモダンの特徴は意味の不確定性、メタ視点、象徴の解体、受け手の解釈の自由度、だろう。1話を見てすぐ僕はその視点で感想というか、論評のようなものを書いた。しかし、この論評はある種の呪いにもなる。作品に参加してしまうのだ。

庵野秀明は、『シン・エヴァンゲリオン』でとてもとても象徴主義臭い手を出してきた。ほとんど寺山修司の魂を受け継いだかのような画面構成の果に、最後はおそらく本人も意図して『田園に死す』を再現した。

エヴァンゲリオンは90年代後半の、「ポストモダン哲学」が「メディア論」と融合して、完全に哲学としてのロジックが蹂躙されたなかで生まれた。蹂躙したのが庵野秀明なのだが、当時の「哲学的」と言われるアニメやゲームはすべてこの思想の蹂躙に手を貸していた。『シン・エヴァンゲリオン』は、今の時代にそれをどう統括するのか興味があったが、きっちりとこの30年の時代の流れを意識したかのように結末を結んだ。

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』はその、ポストモダンの時代を超えた、次の作品だ。『新・叙情主義』とも一線を画したなにかが示されるかもしれない。そう期待する一方で、1話のシナリオ手法は相変わらずの自己言及と、自己批判とが幅を効かせた解釈芸に委ねた作品に思えた。解釈芸に委ねるというのは酷い言い方であって、他のひとに同じ言葉を使ってほしくもないのだが、たとえばデリダやフーコーがどれほどに深く切実なことを書こうが、手にするものは解釈芸でそれを読む。もちろん、僕もその受け取り方になる。

ちょうど『La Luciole』を書いている最中だった。それを完成させるまでは見るわけにいかないと思った。見ればそれが答えになる。そしていま公開されている『羅小黒戦記2』にしても、見るのを躊躇う。作画は良いという話だ。作画では『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』も良かったが、ストーリーのパラダイムが古すぎた。もはや作画でココロが動くようなこともない。だけど手法的には『新・叙情主義』とは異なるなにかがあるかもしれないし、なければないで僕はきっとホッとすると思う。『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』にしても同じで、見てみて何も提示されなかったらホッとしただろう。アニメでもゲームでも、僕にとってはもうただの作品ではなく、誰と友人になるか、誰と結婚するかのような深い選択になる。映画でもそうで、薦められた映画でも、見るのを躊躇う。

高校の頃の親友の言葉を思い出す。そんなに深く考えなくても、付き合って決めればいいんじゃない? と。あのとき考えていたのも、やがて上京して、アニメーターになって、そのときに関係がどうなるか、だった。「それはその時になって考えればいい」と、彼は言った。だけど僕にとっては、誰と会うか、誰と話すか、誰と付き合うかは、すべて自分の人生を決める問題だった。きっとあの時と同じなのだろう。付き合い始めたらデート1回で別れるかもしれないし、考えが変わるかもしれない。それはわかる。だけど、告白のまえに、あと少しだけ時間がほしい。

@sonovels
さよならおやすみノベルズという個人小説レーベルで地味に書いています。サイトで読めばタダ。Kindleで100円。 sayonaraoyasumi.github.io/storage