ドラゴンクエストとの始めての出会いは、タツノコアニメ技術研究所にいた頃、ともに上京した神原くん(このひとは自著の『ひきこもりのユミがアニメーターになるまで』に神崎淳一として登場します。本当は本名の神原で出すつもりでしたが、この一族の企業が思いの外大企業であったために怖気づいて一文字変えました)がプレイしているのを後ろで見ていたのが始まりです。

当時ファミコンといえば、ディグダグやツインビー、バトルシティ、任天堂のプロレスなど、友だちとわいわいと対戦・協力できるものが中心で、ドラクエのような楽しみ方はイマイチぴんと来ていなかったのですが、それでも神原くんの背中越しに見るドラクエからは、いつしか目が離せなくなっていました。昼はアニメーターとして何枚かの動画を描き、ともに晩飯を食らった後に彼の部屋に行ってドラクエを眺め、そして夜中になるとまたスタジオに戻ったりと自堕落に日々は過ぎ去り、ドラクエのIIが発売された際にもまた同様だったのですが、その頃には僕はひそかにアニメを辞めて姿をくらますとココロに決めていたので、プレイする姿を後ろで見ながら始終ため息をついていたのを覚えています。
初めて自分の手でプレイしたのはドラゴンクエストIIIでした。大ブームとなって入手困難カツアゲ借りパクの社会現象ともなったポップに血塗られた金字塔ですが、僕は国分寺西友ストアのおもちゃ売り場でほのぼのと予約し、にもかかわらず発売日当日は量販店の行列を見に行って、魔界のお祭り気分をエンジョイしました。初めて自分で遊んだドラクエはまた格別なものでしたが、難易度的にはIやIIからはずいぶん下がった気がします。
当時、同人誌を作っていました。

これは鳥栖在住の友人がやっている『せとぐーる』なる同人誌のマネをして始めたものですが、知らん、誰や、その情報いるんかい、と、世知辛いツッコミは置いといて、僕と友人のげーだ氏とで、だから誰や、固有名詞増やすなや、一般人ちゃうんか、特にテーマも決めない雑多な冊子を不定期に刊行しておりました。そこに書くのは、その時々にハマってる旬のネタですから、ドラクエをプレイした次の号がドラクエ特集のようになったのは言わずもがなです。

当時の僕は、アニメーターを辞めて近所のスーパーで品出しのバイトをして、暇があったら投稿用の漫画を描く日々を送っており、また、同人誌を作り始めてからというもの、多くの同人誌作家がそうであるように、手ずから作り出したその本は武器にも凶器にも、ときに夜の寂しさを紛らわす恋人にもなったのですが、かつてのアニメーター同志と、ココロの師である小山高生(タイムボカンシリーズでシリーズ構成を務める押しも押されもせぬ大御所です)らに送りつけ、小山からは「気が触れたかと思った」とのお言葉を頂戴したりしたその同人誌『脳毒』を、堀井雄二氏がパネルを務めるTBSの深夜番組にも送りつけたものでした。

当時、堀井雄二が出ているからといって同人誌を送りつけてくるような無駄にアクティブな人間はそうそういなかったらしく、また、テレビ局というのは日頃からそういった狂人の類の登場を待ち望んでいるのもあるのでしょう、僕はすぐにその番組に呼ばれ、堀井氏とも知り合い、『堀井雄二の姫路黄金伝説』の企画に加わり、ゲームのアイデアも堀井氏に見て頂いたものでした。『堀井雄二の姫路黄金伝説』はYouTubeにかすかに痕跡が残っていますが、そのイベント内で配られたシールのイラストは僕が描きました。

ちなみに、このイラストを提出したときに、「若いくせに手の抜き方を知ってる」と謎のエージェントが静かに吐き出すようなマイナス極まりないお褒めの言葉を頂いたのですが、手の抜き方を知ってるんじゃないんです。フィニッシュの仕方を知らないんです。抜いてるのではなく、抜けてる。手なんか、最初から、生えてない。紙に描いた絵が印刷でどんな色になるかもわからないし、どのサイズ、どの画材を使うのが妥当かも知りません。デザインの学校は出ていますが、アニメ科ですし、概論止まり、実践を学ぶ機会をずっと欲してはいたのですが、かといってその頃はゲームの仕事がしたい方が優先で、手を抜くしかないままいまに至ります。
その後の僕は、エピック・ソニー・レコードを経由してファイナルファンタジーで有名なスクェアへと潜り込み、ドラクエとはライバル関係になるわけですが、とか思っていたら、クロノ・トリガーで堀井氏とスクウェアがタッグを組み、当時ロマサガチームに配属されていた僕はそれを複雑な心境で見守っていました。
ドラクエはいまもIIIが一番好きですね。
IとIIで期待しすぎたぶんの不満点を『脳毒』、先述の同人誌の名前ですが覚えておいででしょうか、にも書いて、番組に送った都合上必然的に堀井さんの目にも触れ、寂しい思いはさせたと思いますが、やはりIIIが一番好きです。
音楽のすぎやま先生には会ったことがありません。
スーパーファミコン版の半熟英雄の音楽をご担当願い、なのでプロジェクトでは組んだことはあるのですが、会わず仕舞い。SF版半熟は将軍の名前に食べ物の名称を多用しておりまして、時田貴司ディレクターはすぎやま先生から「時田くんは、食いしん坊なのかい?」という言葉を賜ったそうですが、それ俺! 食いしん坊・イズ・俺! くい・しん・ぼう・はー お れ だーっ♪
鳥山明先生にも、会ったことはありません。
漫画の持ち込みをしたときに、編集部でマシリト――鳥嶋さんの姿を見たことはありますが、担当のひとと一言二言交わす言葉を、春先のツバメでも追うかのように見上げていました。その鳥山明先生の初代アシスタントが、『忍者ボーイとんとん飛丸』で有名なひすゎしこと田中久志さん、その田中さんのアシスタントが『ストライカー!勇気』で有名なともながひできさん、そのアシスタントが『ジャングル・キッズ!!』で有名な僕ですから、鳥山明の血の繋がらない曾孫のような存在で、端的に言えばそれは他人ですね。血の繋がらない曾孫ほど明確な他人もいない。赤の他人っすわー。悲しいっすわー。

新宿の三丁目あたりにあった頃のアーマープロジェクトには、一度お邪魔したことがあります。ちょうどドラクエIVの開発が終わった頃ではないでしょうか。クリフトがバカだと評判のゲームでしたが、キャラ付けをしっかりしてプレイする性質である僕には、神ゲーでした。文句を言うのは、ウィザードリィでアナコンダにディスペルを連打して全滅したこともないキャラ愛のないひとなのでしょう。
はあ?
どういうこと?
パーティを全滅させてでも貫くキャラ愛ってなに?
と、思われるかもしれませんが、そのキャラは少年時代に好きだった子をモデルにしたプリーストでした。その子の名前をつけちゃったんだからもう、しょうがない。だって、なんど言ってもその子は、するんですもの。ディスペルを。アナコンダに。コボルトにはしないのに。なぜかアナコンダに。
それからドラクエV。フローラとビアンカで、どちらと結婚するか悩んだひとは多いでしょうが、僕は(アナコンダにディスペルをかける)幼馴染を捨ててフローラを選びました。幼馴染はあくまでも友人で、いままでそんな目で見たこともなかったし、フローラは結婚を前提とした――と、まあそれはさておいて、Vからは僕もゲームを作る身ですし、新作が出ても、どれ老舗はどんな戦術に出ているやらと、覚めた目で臨むことが増えました。
まとめると、ドラクエの1と2は、神原くんのプレイを眺めた思い出。
3と4は自分でプレイした懐かしのドラクエ。
5からあとは、同業者として手本として眺めるドラクエです。
そうしてゲーム作りの日々に追われるなか、そこに登場した驚きのドラクエX。
驚きの。

ドラクエXのどこが驚いたかって、オンラインゲームに携わった者ならまずはやらないだろうことを、なぜかやってのけているのである。なぜだ。バカなのか? 堀井雄二はバカ――否、ごめんなさい、ゲームバカなのか?
たとえばバトルで「相撲」と呼ばれる押し合いがありますが、普通は言ってもNGになります。通信速度的にも処理負荷的にも無理ですねーと、どのプログラマーも口を揃えるはずなのに、なぜ? なぜできた? 堀井雄二だからか? ダブルすれ違いなるキャラクターのすれ違いを検出するようなイベントも、普通はボツになります。それに、MMO(多人数参加型オンラインゲーム)ではキャラはサーバーに固定が常識だったのに、MO(少人数参加型オンラインゲーム)のようにサーバがフリーになってる。これもIDの設計から覆る大革命でしょう。

とにかく、魔法のようでした。わけのわからないゲームが登場した、というのが当時の感想です。
4アカウントでハウジングや着せ替えをやって、年間で30万ほどは軽く突っ込んでいたんですが、20キャラ並列で育成する地獄の夏祭りのような日々に疲れて、いまはゲームから離れています。

さて、そして続くXIにてスタンドアローンのコマンド型に原点回帰したあとは、佐渡へ佐渡へと草木もなびくヨとXIIへと流れていくのですが、XIIはどうやら難航しているようです。
ドラゴンクエストは日本を代表するAAAタイトルのゲームとしての使命を帯びています。きっと大きなプレッシャーがあると思います。端的に言えば、日本市場のユーザーの嗜好を伺いつつ、同時に世界市場にも売らなければいけない、というダブルバインドのような状態です。日本市場だけ狙っていたら売上は同規模の海外ゲームの2割になってしまいますから、その予算でAAAのシマで鎬を削れるわけがないので致し方ない。狙いたくなくても狙わざるを得ない。
それにいまの日本の制作ラインはソシャゲのノウハウに偏ったところが多く、たとえばオープンワールドでコミュニティや配信重視のゲームを作るとなると、海外のソフトハウスのほうがはるかに高いノウハウを持っています。ぶっちゃけ、韓国や中国のスタジオにグロスで出したほうが制作のリスクは下がると思うくらいです。でもそうなると、日本国内ではネガキャンの嵐でしょう。仮にどんなに良いものが出来上がったとしても。
コミュニティとゲームは運命共同体なんです。それはそれで仕方がないし、尊重しなければいけないのも事実です。とは言え、世界規模で売っているゲームと張り合えるだけの開発を、国内の市場だけで支えられるはずがないのもまた事実です。
ドラクエXIIの制作に関しては、ちょっとおこがましいことを言いますと、いったん社内コンペやプロトタイピング、あるいはそれ以前のライフサイクル設計まで遡って詰めたほうがいいんじゃないかなーなんてことは思いますが、ほんとこれはもう、ごめんなさい。職業病的にこういうことを口から垂れるダメな大人になってしまったんです。
それともうひとつ、これもダメな大人の制御の効かない口からの失禁なんですが、ドラクエはよくリメイクを出していますが、必要なのはリブートだと思います。たとえばスーパーマンやアイアンマンはたびたびリブートされていますが、そのたびに市場は刷新し、大きくなってますよね。リメイクはあくまでも、オリジナルよりも規模は小さく、必然バジェットも小さくなるし、そこを起点にして爆発的に何かが始まるわけじゃない。
しかし、それがわかっていたところで、ゲームと市場とは一心同体であることを考えると、大胆な改革には出れません。それもわかります。市場の意図を汲み取る限り、バジェットを大きく取る案は出せないし、かといってゲームの規模を縮小していては期待に答えられない。
では、果たして僕がスクエニの社長だったらどうするだろうか。
そう考えたときに、ひとつのアイデアが生まれました。
それは、ドラゴンクエストIPの任天堂への売却です。
起死回生ですね。他人事だと思って言いたい放題かと笑われそうですが、これはいまの僕が思いつく、ドラクエIPの唯一の生存戦略です。他に生き残る術はないです。僕のなかでは。
任天堂がドラクエを作るとなると、市場は完全に刷新されます。スクエニが作る限りは呪いの装備のように外せなかったぱふぱふもようやく外せますし、その他いくつも抱えた賞味期限切れの要素も刷新したうえで、新しいゲームとして世界市場に送り出すことができます。
いやいや、さすがにそれはファンの裏切りになる、期待していたファンに叩かれておしまいだ、と思われるかもしれませんが、大丈夫。最新作はこのままスクエニで作ればいいんです。任天堂にはドラゴンクエストの1からのリブートをお願いするんです。それはスーパーマンやアイアンマンのように、新たな仕掛けの起点になりうるし、バジェットも掛けられます。ネタや冗談ではなく、僕がスクエニの社長だったらそう判断するし、任天堂の社長だったとしてもその案をもってスクエニを救済します。
もちろん世の中そう簡単ではないこともわかってはいますし、関係者からしたら外野は気楽でいいよなと思うところでありましょうが、堀井雄二師匠、それに鳥山先生、すぎやま先生の偉業を未来へと伝えたいという気持ちはみなさんと一緒なんです。
ドラゴンクエストの抱える問題は、たんにソフトウェア開発をどうするかという話にとどまらず、この後のゲーム市場、コミュニティ、協賛各社を含めたエコシステムがどうなっていくかとう問題だと思っています。ゲームに携わっている以上、無関係な人間なんていないんです。
と、そんな過去から未来までを網羅した僕のドラクエ史ではありますが、いままでドラクエ関連の仕事は、某雑誌の4コマ漫画くらいしかありません。この4コマ漫画、衣装などのデザインをそのまま使ったら怒られるだろうと勝手に自主規制したせいで、なんかすごいパチもん臭いものになっていました。Beepという古いゲーム雑誌をくまなく調べるとその4コマ漫画が見つかると思いますので、興味のおある方は探してみてください。
ずいぶん歳はとりましたが、もしドラクエに携われるようなことがあるなら、いまからでも携わってみたいと切に望んでいます。もちろん、4コマ漫画でも構いません。あー、いや、4コマなんて贅沢ですね。1コマでもいいです。もういちど、ドラクエに触れたいです。