本日、エッセイを除けば最新作となる『La Luciole』を日本SF大賞に自薦してきた。
そもさよならおやすみノベルズは、権力化した知に対するアンチテーゼ(かっこつけてごめんなさい)という位置づけで、それはずっと言い続けてきたことなので、やや自己矛盾を感じないでもない。しかし、「早川SF大賞に出すぜー!」などと吠えながら書いたのも事実で、改めて「日本SF大賞には出さないんですか?」と尋ねられると、拒否する理由もなかった。
あとがきにも書いたが、この作品は2本のゲーム用のシナリオを魔合体させたものだ。とは言え、オリジナルで追加した要素が9割を超えているのだが。
元になった作品のうちひとつは、旧ブラウニー・ブラウンの吉川くん今川くんと渋谷のベローチェで話したプロジェクト用に書いた『耳鳴りサーフライダー』。タイトルはシナリオにつけた仮題で、とくに意味はないし、ゲーム内容ともリンクしない。死の恐怖を覚えたアンドロイドの話だった。「死の恐怖」が何に由来しているかを書きたいと思っていた。
もうひとつは、熱中日和(Work x Work や モノクロームの図書館で組んだ)といういまは別会社に吸収されたソフトハウスに提案した『廃屋のプレイドール』。こちらは未来を舞台に、水槽脳となってしまったアンドロイド工学の博士が、己の出自を忘れ、アンドロイドたちで作った劇団を指揮するという物語。こちらはストーリーよりも、ユーザーがスクリプトを操作して遊ぶというゲームシステムをベースに考えた。本編の第三章がまるまるこれをモチーフにしている。
どちらも明確に「ボツになりました!」と聞いてはいないので、もしかしたらこの瞬間にでも動き出す可能性がないわけではない。少なくとも、僕がこの作品でノーベル文学賞を獲る確率よりは高い。
この2本を魔合体させる、という案はかなり早い時期にできていた。中心軸は、地球外生命体に由来するアンドロイドが、地球を舞台にした戦争のなかで、宇宙人の施設に入り込み、彼らの文明の深淵に触れるというもので、読んでわかる通り、よくあるありきたりなパターンを踏襲したものだった。最後に、真っ白いなにもない空間みたいなところで、精神体の宇宙人と言葉を交わすようなもの。それを思い描きながら、物語の才能ねえなあと自分を振り返った。
ゲームだとどうしてもわかりきったパターンに落とすしかない部分がある。最後は凄まじいラスボスと戦い、地球レベルのトラブルを解決する必要があるし、そこに至るまでの物語も、少しずつ規模をインフレさせていかなければいけない。ただ、じつはその書き方は、Work x Work という作品で、もういいかなと思う域に達していた。
Work x Work はあまり売れてはいないが、自分ではとてもよくできた作品だと思っている。僕のゲームシナリオのセオリーがすべて詰まってると言っていい。だったら、それを小説にすれば面白いはずだ、というのも考えなくはない。でもそこには、「象徴的な悪」を描くことが必須となる。だけど、「象徴的な悪を倒せばすべて解決する」なんて物語を書きたくはない。ゲームは(特に僕の場合)物語の「過剰な模倣」」だから、「物語を脱構築する装置」というメタな視点を持っている。小説でやってしまっては元も子もない。じゃあ、小説で書くべきものはなんだろう。
ゲームから離れてみると、僕は実存主義なのだと思う。聖剣伝説レジェンド・オブ・マナやマジカルバケーションにその傾向は強く現れている。また、普段から物語の害悪性を強く訴えていて、その思想とゲームのシナリオも食い合わせが悪い。ゲームは「スカッとラスボスを倒させてくれ」というユーザーからの要求が強く、その「構造に還元された物語」は現実の多くを捨象し、解釈の多様性を否定し、「権力としての知」に回収される。そもそもゲームというジャンル全体が、バトラーの指摘するパフォーマティヴィティとして働いている。
それと、物語を書いていると「共感できる物語」を書くべきだという指南が必ずある。だがそうやって書かれた物語は周縁化された人々を切り捨てるし、なんなら、それらを周縁化させるのが「物語」だ。僕は「みんなで遠足に行って楽しかった」よりも「遠足に行けなかった、それはなぜか」を書きたい。そしてまた、そこに共感など要らない。みんな江頭さんをいじめた。みんな太田さんをいじめた。僕がいくら物語でそれを書いても、「感動しました」って僕あての感想が届くだけで、江頭さん、太田さんのことを思い出すひとはいない。それが、共感?
また、物語には必ずと言っていいほど、感情的に声を荒げることで進展するケースがある。たとえば、いままで抑圧され黙っていた脇役が、ブチ切れて、泣きながら自分の境遇を訴えて、はじめてメインキャラ達がはっと気がつくような場面。僕はその「大声を出さなければ通じない」という展開に不満を抱いている。泣いて歌って大団円で解決というセオリーは、他の作品でも批判してきた。僕は、自分が書くべきなのは「声を出せないひと」だと思っているので、La Lucioleにも、そういうひとが何人か登場する。
それから、物語を書いていると、「で、何が言いたいの?」と問われることがある。「テーマがわからない」しかり。しかし僕の感覚からすると、「作者が言いたいこと」に収束する物語なら、そもそも書く必要などない。それはバルトのいう快楽(多解釈性)の否定であるし、語り手による権力行使の一形態でしかない。僕は物語の解釈は受け手に委ねればいいし、究極的には解釈の必要すらないと思っている。解釈したいひとは解釈すればいいが、僕としてはただ文章の悦楽を味わってもらえればそれでいい。
これらを考えると、どうしても「ラスボスを倒す話」に持っていけなかった。それであとがきにも書いたが、そこに「未来から順を追って現代へと遡るというアイデア」が浮かんで、ようやく形になりそうだと判断がついた。ただ、それにしても「地球が滅んだ原因はこれです」と書きたいわけじゃない。因果はわりとどうでもよくて、たいがいの物事は偶然起きるにすぎず、そこに物語も教訓もない、というのが僕の基本的な考え方だ。たとえば、藁で作った家が吹き飛ばされる話を書いたとしても、「藁で作れば家は吹き飛びます」と言いたいわけじゃない。それはただ、吹き飛んだだけだ。
作品内で、男でも女でも三人称を「彼」と表記して、「彼女」の使用を極力避けているのは、アンドロイドや肉体を持たない水槽脳が男か女かという疑問があったからで、ジェンダー・イクオリティは副次的な問題だ。ただ、「彼」と書いてしまうと、どうしても男で連想してしまうので、それはそれで問題ではあるが、変わる言葉がなかった。登場人物のなかに男とも女とも書いていないものがいるが、登場人物にアンドロイドが多く、その性別を男女どちらかに決める必要性を感じなかった。逆にそのおかげで「ジェンダー・イクオリティが定着して数百年経った社会」が舞台になってしまい、そのせいで浮かび上がってしまった問題があるが、そこを軸にするとそれがテーマになってしまうので、深く触れずに流した。ただ、深く物語を観察すると、背景の流れはそれによって駆動されている。自分でも意図してなかったので、気がついたときは「うわー」って感じだった。
普段はテーマを決めて書くことが多く、今回も緩く「進化の話」「意識の話」と中心軸は決めていたが、あまりそこにとらわれることなく、その場で浮かぶ文章に合わせて随時テーマを引き出しながら書いた。これが「何を書きたいのかわからない」に結びつくのであるが、書きたいのは点ではなく、面だ。面としてこの作品を捉えたとき、僕は「書きたいもの」を十分書けたと思っているし、もし可能ならば、読む際にも「面」としてテーマを探ってほしい。もちろん、そんな読み方などしなくてもいい。
と、変な注文ばかりつけている形にはなってしまったが、解釈したいなら解釈してもいいし、象徴主義的に捉えたいなら捉えればいい。テーマを探りたいなら探ればいい、論評したいならすればいい、というスタンスなので、まあ、気楽に読んでほしい。