教育勅語批判

さよならおやすみ
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公開:2025/10/11

教育勅語は「家庭や友人との関係」と「国家」とを一貫して語っている。これは私的領域と公的領域の混同であり、また、「契約社会(ゲゼルシャフト)」と「血縁社会(ゲマインシャフト)」の混同でもある。家族や友人など、契約のない関係において重要になる振る舞いはあるが、社会・企業・国家は契約をもとに成り立ち、これらは混同すべきではない。これらを混同したものに、新興宗教やワンマン企業がある。

『監獄の誕生』でフーコーは、近代社会では「暴力的支配」から「規律的支配」へと変化したと指摘した。これは学校・軍隊・工場などで、個人の身体と行動を微細に統制する権力である。権力は、「禁止すること」によって臣民を支配するのではなく、「規範」によって支配する。権力が「どう生きるべきか」を指示することで、大衆はそれを内面化し、自ら「臣民」としてのアイデンティティを身につける。教育勅語は「良心」や「美徳」を通し、自発的な服従を促し、「暴力なき監獄」を家庭と学校に浸透させた。その結果、大衆は、道徳と規律を内面化し、天皇を頂点に、強烈な序列意識を持つに至った。当時の軍国主義は崩壊したが、現在も蔓延する差別や、自己責任論、社会的弱者の切り捨ては、日本人特有の序列意識に根ざしている。

また、教育勅語が出された明治期は明治維新や文明開化といった言葉で粉飾されることが多いが、実際には日米修好通商条約と戊辰戦争とで、大量の資産が流出し、その困窮が日清日露戦争などを引き起こした。それが日本の軍国化を招き、太平洋戦争の惨劇を経て、いまの不平等な日米関係などにまで影響を及ぼしている。幕末の薩長クーデターの実情とその後の天皇制の正当性を振り返ることが日本近代史における喫緊の課題だと言えるが、教育勅語はそれをタブー化した。そのタブーはいまも続き、いまも多くの者がそれを内面化している。

以上の理由で、教育勅語の称揚に反対する。

@sonovels
さよならおやすみノベルズという個人小説レーベルで地味に書いています。サイトで読めばタダ。Kindleで100円。 sayonaraoyasumi.github.io/storage