はじめに
20歳から21歳にかけての1年と1ヶ月ほど、アニメーターをやっていました。1985年頃、主に携わったのはタツノコプロの『ドテラマン』で、その後の『赤い光弾ジリオン』をほんの4~5話まで携わったところで辞めました。
たった1年ちょっとなのに、いまだに「タツノコプロのアニメーター」というのは、自分のなかの大きなアイデンティティとなっています。今日は当時を振り返りながら、なぜ辞めたのかを語りたいと思います。
その1 落ちこぼれの同居人の稼ぎ
上京後はタツノコアニメ技術研究所のある国分寺に住んでいました。
国分寺南町という閑静な住宅街のアパートで、九州アニメーション学院で知り合った友人とルームシェアしていましたが、そいつはなぜアニメーターになろうと思ったかわからないくらい絵が下手でした。
当時僕は、同期のなかで最高の月7万円(!)を稼いでいたのですが、同居人は研修課題すらこなせず、落ちこぼれて、アニメーターはもう致命的に無理だから、ということで、某ゲーム制作会社から請け負ったドット絵描きのほうに回されていました。
哀れな人間の末路……と、思ったのもつかの間、彼の稼ぎは月に40万になりました。
それを聞いて素直に祝ってやれるような出来た人間ではありませんでした。すぐにルームシェアを解消して、ひとりで4畳半の小さなアパートを借りたんですが、同居人は親が認めなかったのか、故郷へ帰ることになりました。
ちなみに彼はいま消息不明で、生きているか死んでいるかすらわかりません。
その2 枚数が上がらなかった
月に500枚の動画を描いていました。
これは僕の前の代とくらべるとかなり速いペースだということで、「3年にひとりの逸材」などとちやほやされることがありました。『赤い光弾ジリオン』で名前がクレジットされたのも、そのご褒美のようなものでした。
ただ、1枚あたり140円(本当は170円なんですが、手取りだと140になりました)なので、500枚では月に7万円しか稼げず、それで食べていくのは相当苦しかったんです。
最高では、半月に350枚描いたことがあります。これなら一ヶ月なら700枚で、稼ぎは10万を超える……と思ったものの、その月の後半は150枚までペースダウン。自分は、ノルマを課せられたらこなせるけども、逆にそれ以上は描けないタイプなのだと知りました。
その3 クオリティが上がらなかった
また一方では、月に500枚を描くことが呪いとなって、「クオリティを上げる」ほうに意識が向けられなくなっていました。
そもそも地力が足りなかったんです。梅津泰臣氏や庵野秀明氏ほど描けていたら苦労はなかったと思います。
付け焼き刃の努力でなんとか食いついている状態ですので、500上げるだけで精一杯という状態が続きました。
たとえば原画で、アタリだけ付けたものが来て、原画の意図としては「動画の方で資料を見てフォルムを取って書き込め」ということだとわかっても、そこまで配慮しませんでした。
いまなら第二原画がいるので、そこでなんとかするんでしょうけども、当時は原画の線がすべてですよ。学生時代「なんでこんなに作画崩壊してるの?」と思っていたものを自分で描いてしまいました。
その4 友人のチェックが先に外れた
タツノコアニメ技術研究所では、新人の動画マンはマンツーマンで先輩原画マンのチェックがついて、そのチェックが外れることが一人前の証となりました。どうきはみんな「先に研修を終える」「先にノーチェックになる」ことを目標に競い合って、僕は研修はトップで終えたんですが、真っ先にチェックが外れたのは、僕の次に研修を終えたひとでした。
他人との競争なんか気にすることじゃないとはわかっていても、「トップを走ってる」というプライドでなんとか繋ぎ止めていたものが壊れた気がしました。
このままずっとチェックが外れないかもしれない、なぜならば、もう自分はこれ以上上手くも速くもならないから、みたいな絶望がありました。
その5 所長が酔っ払って愚痴ってた
これは友人から聞いたんですけど、夜遅くまで仕事してたら、所長が酔っ払って戻ってきて、スタッフひとりひとりの寸評をはじめたそうです。友人は僕のことも聞いたそうですが、内容は詳しく教えてくれませんでした。
これもまあ、精神状態が良ければなんてことのない話ですが、枚数とクオリティで悩み、本当にアニメでやっていけるのか思い悩んでいた時期でもあって、けっこうきつかったですね。
ただ、いまにして思うと、睡眠不足からの鬱もかなりあったように思います。
その6 アニメを見なくなった
アニメをいちばん見ていたのは高校のころで、アニメの専門学校に入ってデザインを学び始めると、趣味は社会学や心理学に移り、本ばっかり読み漁るようになって、ほとんどアニメを見なくなっていました。それでも、まわりはアニメ好きばかりですから、『ダーティペア』だの『POP♥CHASER』だの『バース』だの『メガゾーン23』だのというOVAを借りて見たりはしていたんですが、リアルタイムで何が放映されているというような情報からは遠ざかりました。これがアニメーターになると更に深刻になり、自分が動画を描いた『ドテラマン』だけはスタジオのテレビで見たんですが、他はほとんど見なくなりました。
その7 映画を見なくなった
学生時代は映画をよく見ていました。地元の久留米にはそこそこのスクリーンがあり、しかも叔父が映画の配給に近い仕事(ぶっちゃけある種のヤクザかもしれない)をしていたのか、毎月2枚から4枚、「久留米の映画館だったら松竹以外どこでも使えるタダ券」をもらっていました。当時は2本同時上映がデフォルトですから、月に4~8本の映画を観ていたことになります。タダで。
アニメーターになってからは、国分寺には成人映画館しかなく、国立に名画座があったのは把握していたんですが、そこへ行って帰るという時間も取れずに、ほとんど映画を観なくなりました。
その8 生活のために本を売った
学生時代にアルバイトをして、ハードカバーの学術書をけっこう持っていました。デザイン関係の資料の他に、進級制作で神話を扱った関係から、民俗学や心理学・哲学系の書籍も多かったのですが、生活費に困って少しずつ古本屋に売りました。こればかりはアイデンティティを剥がされるような思いでした。
アニメの専門学校には通いましたが、それを通して僕はアニメから離れてしまっていたんです。なのにそこで得た「新しい方向」への筋道を、高校時代に憧れたアニメによって侵食されるという、呪いのような日々を過ごしていました。
その9 先輩たちの企画
そんななか、みんないつかは自分の企画でアニメを作りたくてがんばっていいたんだと思います。先輩方のなかにも企画書を作って、それを上層部に持ち込もうとしてるグループがいました。そしてその企画がどうあしらわれているかも、先輩方の声を小耳に挟んで知っていました。しかも自分たちの企画が通らないだけならまだしも、親会社は倒産しかけているとの噂もあり、「企画がない」と言われながら企画が蹴られるわけのわからない状況があり、一方でスタジオの外を見ると、大手のプロダクションを離れて自分たちでスタジオを起こしてOVAを作る猛者たちが群雄割拠しいていました。あの頃の選択肢は「沈むゆく船に残るか」「群雄のひとりとなって打って出るか」でしたが、どちらも選べませんでした。
その10 友人のリタイア
博多の専門学校で知り合い、僕より1年半早く上京していた友人が、正式にリタイアしました。
学生時代はアニメのウンチクを垂れて、絵も得意げに見せびらかしていた男でしたが、上京後はまったくついていけずに、僕が状況した頃には研究所には席だけ置いて顔を出すこともなくなり、「シナリオの勉強をする」とか言って小山高生のカバン持ちとしてシナリオ教室に通っていましたが、1年ほどして、親が怪我して家業が行き詰まったとかで故郷に呼び戻されました。彼は落ちこぼれの同居人と違って、それなりに描けたはずなんですが、その挫折を見るのは辛かった。
そりゃあ人生考えますよ。
彼は小山高生に近いところにいて、そのコネでなんとかしのいでいるけども、それでも苦しんだわけですよ。同様のひとは何人もいて、だからこそ助け合うことが大事なんだ、と気がつくひとなら、そこで踏ん張ったのかもしれませんが、残念ながら、そういうタイプではありませんでした。
まとめ
アニメーターをやめるとき、「まずは金を稼ごう」「まずは生きよう」と思いました。「アニメがやりたければ60になって退職してからでもできる」と。
そしてなんたる偶然か、60になってアニメのお仕事のお話も来たのですが、残念なことに60になっても退職しておりませんでした。
いままでいろいろと予想外の人生を歩んできましたし、これからもきっとそうなると思います。
70になって、80になってアニメの仕事をしていないとも限らないので、このお話にはまだオチはありません。