政治的主義
基本的には無政府主義・アナーキスト寄りの共産主義者である。これをそのまま現状の政党に当てはめると自民党・ネオリベよりの考えに近づきもするが、これは「政府がなくても自治・統治が可能である」という理想主義的な発想に基づき、現状はこの理想から乖離しており、追認はしない。
思想的主義
基本的な考え方としては、「実存は本質に先立つ」とする実存主義の立場をとり、言語論的転回以降の構造主義的な視点で考えるようにはしている。ただ、構造主義はツールであって思想ではないと考えており、立場としてはポストヒューマニズムに近い。ドゥルーズ&ガタリとミシェル・フーコーの影響が強いことを自覚している。(が、リゾームの瓦解を目の当たりにしてドグラ・マグラを観るかのような衝撃を受けている昨今)
信仰する宗教
どの宗教も信仰していない無神論者・唯物論者であるが、思想的には中学時代に読みふけった老子の思想を最も強く受けている。ただし、後に体系化された道教に関してはほとんど知らない。インド哲学の影響もあるが、ヨガナンダやババジ等ソースは限定的。
支持政党
社会主義インターナショナルに加盟する社会民主党を支持。社民党の政策や発言にはやや場当たり的と感じる部分があり、全面的に賛同はできない。なぜ(共産主義者を自覚しながら)共産党支持ではないかと言えば、日本共産党は(中央集権的な)第三インターナショナルの孫のような存在で、社民党は(議会を中心に独自性を認める)第二インターナショナルの従兄弟の曾孫のような存在にあたるからで、その『歴史へ』の敬意である。いまの日本共産党がコミンテルンだなどとは言わない。
自衛隊
自衛という考えが日本の独立国としてのアイデンティティを歪ませていると考えているので、自衛隊は廃止し、正規軍を持つべきだと主張する。現実に世界では紛争が起きており、それを解決できる能力を持つべきで、「国連に金は出すべきだが、国連軍兵士は他国が派遣して他国の連中が死ぬべきだ」という考えに強く反対する。国連は国連軍を持ち、日本も積極的にこれに参加すべきであると考えているが、現状の国連は大国の影響が強く理想通りには機能していない。日本軍を持つにはまず米国の実質的な支配から脱することが重要であろう。現状では米国の属国としての議論しかできないため、日本軍云々を持ち出すのは時期尚早である気がしているし、いまの国民性を考えると、その「時期」は永遠に訪れないようにも思う。
核武装
核不拡散条約等の現実的な制約により核武装は不可能であると考える。このまま「非核三原則」を廃止しても、実質的には「米軍から核を買うが、独自に運用する権利はない」という、いまの米空母や潜水艦により核を持ち込まれている現状と変わりないどころか、たんに明確に「核を持っている」ことの宣言で終わり、戦略的なメリットとしてはマイナスになる。また、作戦能力においても核武装よりも戦力投射能力を整えるべきで、空母打撃群・遠征打撃群の充実を急ぐべきだろう。ただし、日本は民主主義国であるので、その前に合意形成は必要だと考えている。
天皇制
天皇個人の人権を考えれば、現状の天皇制には修正が必要であろう。実際に天皇が法律上の国民に該当するかどうかの議論がある。ただし、天皇制というシステムには文化的な側面もあり、その文化をただちに抹消することには反対である。天皇を犬に継がせられるように皇室典範を変更し、次期天皇から犬を天皇とすることがベストな選択であると考える。
日本国
日本の歴史は何年か、という問がよく聞かれるが、明治憲法下では国号は大日本帝国とされ、英語表記でも Empire of Japan とされるので、現在の日本= Japan とは別の国と考えるべきだろう。これを同じと考えると、フランス共和国とフランス王国が同じ国になる。このため、日本の国としての歴史は日本国憲法施行からの80年程度と考えるべき。更に遡れば、幕末の動乱で孝明天皇が暗殺され、替え玉として明治天皇が据えられたことはほぼ間違いなく、そこから数えるなら、日本の歴史は150年程度だ。歴史を紐解けば馬子による崇峻の暗殺、天武による実質的な大友皇子の殺害と、それが天皇家の持つ宿命だった。百済の王子たる天武天皇が百済の継承国として日本という国号を定めてからなら1350年程度、神武東征からなら、おそらく3世紀後半なので、1750年程度。
憲法改正すべきか
婚姻に関して明確に同性婚を認めるべく変更すべき、また、労働の義務の一文を削除すべきで、戦争に関しても「武力行使=戦争」という循環定義が見受けられるので、具体的に何を戦争として定義し、禁止するかは明確にすべきだろう。しかしこれに関しては、ソフトウェアでいえば「バグはあるけど修正できるスタッフがいない」という状態で、修正するよりは今のまま解釈で乗り切ったほうが良い。おそらく現状で憲法を変更したら、それ以降実質的に憲法は存在しなくなる。また、憲法を改正できる人材が日本に育つとも思えないので、おそらくいまの憲法は日本の歴史上の唯一の、最初で最後の憲法になるだろう。
憲法9条
先述の通り「戦争」と「武力行使」とがやや循環定義に陥っているので、修正すべきだとは考えるが、理念としてはなんらかの形で残すべきである。また「日本が戦後、戦争に巻き込まれなかったのは憲法9条があったからだ」という話がたびたび聞かれるが、これは日本が米国の属国であることを前提としているので首肯できない。憲法9条いかんに関わらず、米国の意志とは関係なく戦争をする・しないを判断すべきだ。しかしまたこれもバーチャル(どう振る舞うべきか)な理想であり、アクチュアル(どう実装されるか)には、米国の属国として9条を持つしかなかった。「日本国憲法は米国から押し付けられたもの」という者がいるが、現実には「米国から自国民を守るもの」として機能した。
著作権
著作権は現状で作者の保護ではなく権利者の保護に用いられている。実際にゲームのシナリオを数多く手掛けているわたしは、一切の著作権を持っていない。かつては曲亭馬琴が里見八犬伝の著作権をすべて版元に押さえられて自らには著作権がないという状態だったが、いまのゲームやアニメでも同様で、著作権は版元を保護しているだけで、著作者を保護してはいない。また、フーコーが指摘するように作者という概念は活版印刷以降の利益の分配のための発明でしかなく、それ以前には作者という概念もなかったという考えを支持する。よって、著作権はすべてコピーレフトであるべきと考えている。
夫婦別姓
名前が姓名である以上、それは家名・個人名を示していると考えるのが妥当だが、現状ではこの「家名・個人名」がセットでプライマリーキーとして機能しているため、この変更を余儀なくする強制的な夫婦同姓のシステムには反対、よって夫婦別姓には賛成する。
経済
経済に関してはMMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)を支持するか否かが議論として大きいと思うが、MMTを単に「いくらでも借金を増やせる方法」と捉えるならば反対、会計理論の変化程度に捉えるなら賛成である。もともと減価型通貨によるBIを理想と考えており、この減価分が税収を代替すると考えると、MMTと考えは大きく変わらない(と、思っている)。ストックよりもフローを増やすべきであると考えているので、金を刷っても市場に流れなければ意味がない。社会保障を厚くし、実際に金を必要としているところに流すべきだ。ただし、これはMMORPG内での経済の観察から来ているものなので、一般化するには超えるべきハードルがあることは理解している。
AI
現状では生成AIの問題に矮小化して議論されることが多いが、天文学や材料工学等、AIを抜きには考えられない分野が数多く存在する。なので、AIの活用・発展そのものには賛成。著作権の問題で言えば、先述の通りコピーレフト論者なので、AIが著作物を勝手に利用することにも賛成。ただし、AIが学習したデータを企業は公開する必要があるが、ここが技術的にブラックボックス化するので、遡って「AIの著作物利用」も原理的には反対になる。ただし、全世界同時にAIを規制できるならば、規制しても問題ないが、不可能だ。いずれかの国、いずれかの企業がAIの利用を継続したら、大きな経済格差を生む。それに、いまのAIは目に見えているが、検索結果に統合されるなどしてインフラ化したら制限のしようがなくなる。よって、現実的にはAIは規制できない。そういう制御不能の怪物が野に放たれてしまったと考えて、新しいルールを模索するしかない。
原子力発電
ウラン等の採掘の環境負荷が高く、また廃棄物の管理コストが高いことから反対。プラントの規模が大きく、稼働期間ですら半世紀から1世紀、廃棄物に関しては永久的な管理が余儀なくされるが、その間国が経済的にも軍事的にも安定していることが前提となり、環境の変化に弱い。そして現実に、再生エネルギーに圧されながら計画を変更できずにいる。
太陽光発電
明確に反対である。太陽光以外の発電はリソースを必要とし、化石燃料であれ原子力であれ供給できるエネルギーには上限がある。しかし、太陽光には実質的な上限がない。化石燃料や原子力なら国家によるコントロールができるが、太陽光は個人が土地を買えばいくらでも発電できる。いくらでもデータセンターを建てることができて、それが太陽光を熱に変換する装置として機能する。ならば「電気を使うな」という話になるが、これもバーチャルな(理想としての)意見であって、アクチュアル(実質的)には、電気を使って解決するしかない。
自由
「人間は社会に束縛されているが、本来は自由である」という考えには反対の立場をとっている。自由は貨幣制度によって生み出された仮想的な概念であって、本来の人間は集団に所属することでしか生きられなかった。貨幣によって、集団から離れても自活できる能力を得たが、その貨幣を得る能力=自由を得る能力はひとによって異なる。自由とは自分の意志で使える「金」のことであって、精神性の話ではない。「あなたは自由だ」と言っても、「金」がないのであれば、「勝手に野垂れ死ね」と同義だ。人間に必要なのは「自由」という欺瞞・空手形ではなく、社会による保護だ。
表現の自由
表現の自由なんてものはない。ジャン・ポール・サルトルが言ったように、人間は自由の檻に閉ざされており、自由は無限の責任に束縛されている。そして多くの場合「表現の自由」を訴えているのは、喫緊に生命の脅威に晒されているものでもない。重要なことは、「弱者が己の意志を表明する際に制限されない」という点であって、それは表現する側ではなく、制限する側の問題だ。また、「自由があるから、自由に表現しなさい」ではいけない。自由を行使できる能力・表現する能力には個人差がある。表現の自由に頼りすぎると「表現できないもの」を透明化してしまう。
正義
概ね正しいであろうことの合意が取れた社会との契約。よく「正義はひとそれぞれ」というものがいるが、それは「個人の信念」であって「正義」ではない。ホッブズがいう「万人の万人に対する闘争」と同じで、正義以前の状況だ。正義は飽くまでも社会との契約によって生まれ、個人の信念だけでは成立しない。
差別・排外主義
あらゆる差別に反対である。差別とは構造である。「あらゆる差別に反対」と言うと「差別はなくならない」と異を唱える者がいるが、わたしは「あらゆる万引きに反対」であるし、同様に差別にも反対する。万引きもなくなるはずがないし、万引きしなければ生きていけないものもいるだろうが、ならば「万引きをなくしても生きていける社会」を構築すべきであろう。差別も同様。そしてそのためには、個人を罰するよりはシステムを変えていかなければならないのだが、喫緊に生命を脅かされる者もいるため、必要であれば処罰もせざるを得ない。
人生とは
「人生とは楽しむためにある」に違和を感じる。「楽しむ」というのは脳の報酬系による感覚であり、適者生存の選択圧による結果に過ぎず「楽しんだものが、結果として生き残った」だけであり、それは手段であって、目的ではない。「人生を楽しめば、良い結果が導かれる」ならば同意する。多少詩的に言っても許されるならば、「人生は贈り物」だ。自分で得たものではないし、望んだものでもない、ときに負担になるが、誰かから贈られたものだ。良いものでも悪いものでもない。その価値も意味もただ他者との関係で決まる。
議論しない主義
議論は無駄なものが多い。無駄な議論の多くは議題の設定が不完全だ。議論の前提とする解決すべき目標を細かく詰めていく過程が重要で、もしその部分を「議論」というのであれば、それには賛成だ。しかし現実には「ジャンケンで強いのはグーかチョキかパーか」という不毛な議論が多い。