さわり
さて、VERSION 1から順に追ってきた『ドラゴンクエストXオンライン』の感想ですが、とうとうVERSION 6となりました。残すところあと3回ですね。今回もネタバレありで進行しますので、VERSION 6未プレイの方は注意してください。
また、何度も言っています通り、すべては「後知恵」です。出来上がったゲームを見てからならなんとでも言えるのです。完全な無の状態からさまざまなしがらみを越えてこのゲームを完成させた開発陣は、感想のいかんによらず称賛されるべきものです。
と、いつも通りの注意事項を述べたところで、本題に入りましょう。
VERSION 6 天星の英雄たち
まず、VERSION 6ですが、冒頭のパルミオ博士のセリフの良さに度肝を抜かれました。CVは森久保祥太郎さんです。
ゲームのヴォイスは、従来の表示速度に合わせるためかテンポが悪いものが多いのですが、森久保氏は見事にパルミオのテンションと狂気とアホを表現されています。これを聞いただけでVERSION 6は大成功だって感じるほどの名ヴォイスです。
それと、前回の感想でだらだらと書いたフェイスモーションですが、VERSION 6では一部実装されていました。やっぱりこの開発陣はすごいですね。外野が指摘する程度のことは自分たちでも把握していて、着実にクオリティアップしてきます。ジア・クトの皆さんは、アストルティアの民と違ってちゃんとモデルで口が開きますし、この異なる仕様を同時に画面に出しながら不自然さを感じさせない技術……というか、共存させようと思った踏ん切りの良さに感服します。
また、初期の頃はキャラクターの指の太さや節クレの表現が不満だったんですが、そこもかなり改善されていてもう、VERSION 6のユーライザの指の美しいことと言ったら。
と、着実に進化を続けるドラクエ10ですが、皆様うすうす感じられている通り、海外のAAAタイトルに比べるとやや貧弱な面があります。これはリリース当初Wii版まで視野に入れねばならなかった事情が大きいものだと思いますが、逆にこの、Wii版でこれだけのローディング速度を出している基礎開発力はたいしたものですし、現行のSwitch2版にしてもそのローディング速度だけは異様で、普通にゲームエンジンを使って開発しているひとは度肝を抜かれると思います。
その、少し残念なドラクエ10ですが、ではどこが優れているかと言えば、なにを抜きにしてもシナリオでしょう。それはVERSION 4でもVERSION 5でも見られましたが、奇跡とも呼べる構成と筆の魅力がありました。
それがVERSION 6で(VERSION 3や4でもあったのですが)変容します。
一般的なセオリーは踏まず、大仕掛け頼みの展開で、かなりやんちゃなシナリオだと感じました。
ただ、いままでが良すぎたのです。
最新のゲームと比べるとどうしても見劣りするドラクエ10のなかで、シナリオだけが異様に突出していました。本来なら、VERSION 6こそがドラクエ10であって、これが商品としてのドラクエ10なのです、きっと。
前半・・・
VERSION 6は、シナリオの面でVERSION 4.1と同様の特徴・クセが現れていますので、ライターは共通しているかもしれません。物語全体が「盟友とはなんであるか」という設定を掘り下げたものになっている点も共通しています。
基本的にはこれが、過去の物語を紐解く形で語られますが、それがVERSION 6の大きな特徴です。
漫画やアニメなど――たとえば『JOJOの奇妙な冒険』などはシーズンが変わるごとに新しいタームを追いかけますし、他の漫画もアニメも、基本的には新しい章では新しいタームを追いかけますから、ひたすら過去へ過去へと掘り下げていくドラクエ10のパターンは新鮮で、特別感があります。
ちょっとどの順番で書くべきか整理せずに書いていますので、いろんなものが前後するかもしれませんが、ご容赦ください。
VERSION 6は非常にストレスの高い物語だと感じました。
冒頭、主人公はユーライザという若い天使の紹介で英雄として天界に招かれるのですが、他の天使たちが全員クズで、のっけからイライラします。
北欧神話におけるエインヘリアル――ヴァルキリーによってヴァルハラへと導かれる英雄――がモチーフなのだと思われますが、そこにまだ生のある人間が選ばれるのですから、あれこれと小言を食らうのも当然と言えば当然な展開なのですが――とは言え、居並ぶ天使たちから罵倒されて言い返せない状況がVERSION 6.0通して続くのですから、正直、辛いです。
そしてマイナーアップデートであるVERSION 6.1では天使ばかりか、集められた他の英雄まですべてクズに成り下がり、クズを更生させるしかない、というボランティアのような動機でゲームが進みます。
せめて天使たちが表面的にはいいひとたちで、神々しくて、憧れを抱かせてくれるような存在だったら救われたのですが、最初に「なんでおまえらに審判されなならんねん」と思ってしまったので、その先もストーリーに入り込めず、作り手ともどもずいぶん損をしたと思います。
あと、ちょっと関係ないかもしれませんが、聖天舎にいるアラクレスという天使が虫唾が走るほど嫌いで、これも第一声に問題があったのでしょう。ゲーム中で最も嫌いです。通るたびに見たくもないと思っているのに、シナリオで呼び止められることがあって、かなりムカムカしています。
とは言え、某聖剣伝説レジェンド・オブ・マナの冒頭にも同様のセリフで足止めしてくるキャラクターがいますから、あまり一般化はできません。そうか、こんな気持になるのかー、と思いました。
かくして、VERSION 6.1はボランティアのような心境でアストルティアに出発したのですが、これがたとえば、フォステイルがともに戦ってくれて、悪神と化したカブたちやリナーシェやハクオウが次々と村を襲って「次の犠牲者が出る前に止めないと!」という状態ならばわかるのです。
しかし、主人公が行動を起こした時、事件はまだなにも起きていないんです。
それをユーライザという、主人公を巻き込んでおきながら妙に他人事のように振る舞う天使と解決しに行っては、悪神たちの過去語りを聞かされるという、「なぜここに俺を呼んだ?」と常に自問させるのがVERSION 6の前半の展開となります。
つまり、今現在を駆動する物語がないのです。
そこにたとえば名犬メイちゃんのエピソードが絡んだり、山神イプチャルの話が絡んだりするのですが、駆動軸がないので、基本は指定されたところに行くだけになっています。
これがたとえば――
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カブ、ドルタム、ナンナがそれぞれ進軍を開始した!
すでにゴブル砂漠に到達!
オアシスの隊商宿のビビデが池に蹴落とされフミイミとシンリィがドルワームを守っているけど長くは保たない!
そうだ、山神イプチャルに!
「なんとあの3人がそんなことに……あいつらはこれこれこういうヤツらだったから、ここはこれこれこういう手で……」
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――だったらわかるんですが、実際のプレイでなぜイプチャルに会いに行ったか記憶は曖昧ですし、そこで聞かされたのもカブたち三闘士に関する設定でした。
これらは、漫画やラノベであれば編集者が注文をつけるし、そもそもそのレベルの作家・漫画家はスタートラインにつけないのではないかと思います。
ただこれらの問題も、シナリオライターの能力不足ではなく、リソースやスケジュールからの制限である可能性があります。
これに関しては、多くの同業者が体験してると思います。ゲームのテキスト量とスケジュールを他のメディアと比べてみてください。考えるより手を動かすしかないという状況は日常茶飯時です。
話は戻りまして、こういった過去を掘るのが中心の展開は非常にマーダーミステリー(マダミス)っぽいと感じており、もしかしたらマダミスだと考えればいいのかも? と、一瞬思ったのですが、その場合も少し調整が必要だと思いました。
たとえば、ヘルヴェルの悪行を明らかにする場面などはフォステイルがぜんぶ語っていますが、これがマダミスだった場合は、プレイヤーがその謎解きに必要な証拠を揃え、プレイヤー自身がヘルヴェルに叩きつけるのが基本になるでしょう。
この謎解きを、昔のRPGでは町の人の会話などでやっていたのですが、いまのゲームでうっかりそれをやると総当りのフラグ立てゲームになります。
ドラクエ10では総当りフラグ立てになっている部分がいくつか見受けられますので、それを避けるために「フォステイルにすべて語らせる」という手法を選んだのかもしれませんが、本来ならクエストに散らして見せるのがクエスト制のゲームの醍醐味だと思います。
プレイヤーはただ、クエストアイコン👑の出た手近なキャラにインタラクトして順にいくつかを解いただけで、まるで自分で謎を解いたかのような臨場感を得られます。テキストの詳細を読まなくとも、どこにいって、何を調べ、何を倒したか、斜め読みしただけで面白さが伝わるように書くのがシナリオライターの真骨頂でしょう。
またこの点はシステム側にも問題があり、例を挙げると、メインとサブのクエストアイコンに差がない(そもそもクエストアイコンではなく名前の色変えでしかない)点、目的キャラに名前の色変えがなく、ヒントを与えるキャラに色変えがある点――のおかげで遊びやすさがずいぶんと損なわれています。おそらく、「ドラクエの肝は町の人に話しかけて謎を解く部分だ」という思いからこの仕様を採用したのでしょうが、いまの環境には合っていないと思います。
以上は、主に構成の話でした。
専門用語を使うなら「脚色」にあたる部分です。
「脚色」は、脚本の装飾的なアレンジだと思っているひとが(プロのなかにもたまに)いますが、「構成」のことです。
その「構成」については一旦ここで終えて、次に前半のストーリーの本質に触れますが、ストーリー的にもこの場面の「犯人はヘルヴェルだった」という点と、そのヘルヴェルが簡単に赦されてる点は解せませんでした。
ヘルヴェルが犯人だったことが暴かれたあとで、どういう経緯でそうなったかが描かれるのですが、すべて後出しで、事前になんの情報もありません。
たとえば「何百年前に負った傷」があり、時折それが痛む、などの描写があれば、あとから出された情報も「あの傷はそういうことだったのか」と、飲み込みやすくなりますが、一切ありません。
逆に悪神になったラダガートはよく古傷が疼くアピールをしますが、なんの伏線でもありませんでした。非常に贅沢な仕様で、伏線などは要らんのだ、物語かくあるべしだよ――とも感じますが、他がちゃんと成立していない以上、ちぐはぐな印象にしかなりませんでした。
伏線が必須のものとは思いませんが、感情を揺さぶり、設定を飲み込ませるレトリックとしては有用だと思います。
たとえばここで、伏線とは一見無関係そうな村上春樹を例に出しますが、春樹はその場の筆にまかせて書くタイプなので、一般的には伏線は仕込みませんよね。
それが映画版の『ドライブ・マイ・カー』だと、ヒロインの渡利みさきの頬に傷があり、これが伏線として機能してしまってるのです。この場面はすごく違和感がありました。
あの村上春樹が、ですよ? 伏線を入れてるんですよ?
実際には、この頬の傷という伏線は『シェエラザード』という別の短編から流用した映画オリジナルのネタで、それを聞くとなーんだって感じではあるんですけど、シェエラザードの「頬の傷」がヒロインの内面の業を表すのに対して、映画版ドライブ・マイ・カーの「頬の傷」はヒロインの外的な境遇を表すものになっていて、世界観をとても狭めているように感じました。
わかりにくいですか?
それなら『北斗の拳』の元斗皇拳の伝承者「金色のファルコ」を思い描いてください。彼は片足なんですが、自ら足を斬ってラオウに差し出し、進撃をこらえてもらったとい過去があります。これは、自分で差し出したからこそ意味があるのであって、「ラオウと戦って足を失っていた」では、感情に作用しませんよね。
要は同じ伏線でも、ゾクゾクするものと「さいですか」で済んでしまうものがある、というお話で、使い方が肝要だ、というのを覚えておいてください。伏線なんてものはただの読者サービスでレトリックでしかないんですが、内面を深く抉る有用なツールにもなります。
たびたび長い脱線が挟まってますが、ついてこれてますでしょうか?
このヘルヴェルの件では、いままでの物語で魔王が何をして、どんな目に合わされたかを考えさせられ、なぜ彼が赦されて魔王は倒されねばならなかったのかという疑問が生じました。VERSION 5で「魔王」が脱構築されたうえでこれなのか? と。
表現を見ても、とくにここは厄魔ポヴァディウスの前フリや動機に比べても弱いと思うのです。ポヴァディウスは、金庫がなくなる場面からポヴァディウスPOVでの「怪しい見せ方」をして、「裏に何かある」と感じさせる作りになっていましたが、ヘルヴェルは一瞬影がよぎったのが見えたくらいで、心構えもできていないうちに「犯人はヘルヴェルだった」が来た状態です。
ストレスの溜まる展開には慎重になるべきだと思います。ストレスが上がっても離脱されないためには、解決の導線が見えていることが重要で、それを構築した上でその展開に踏み出すべきなんですが、それでも辛いと感想を貰うことが多いものです。
ストレス解消の導線を導くためには「駆動軸」が必要で、たとえばパラディンの職業クエストだったら「ジェニャを救いたい」という動機があるからこそ、そこそこの苦難も乗り越えられたのです。傍にいるズーボーも決してジェニャを見捨てないだろうという確信がありました。どの程度の動機があれば、どの程度の困難を乗り越えられるか、というのは数値化して意識するくらいでもいいかもしれません。
前回も書いた通り、物語は「今起きていること」をベースにして描き、「過去を掘り下げる」のはそのキャラクターが壁にぶちあたったときとするのがセオリーです。
そしてハリウッドの多くの作品では、そもそも過去を掘り下げることすらしません。超人ハルクは放射能を浴びて超人になりましたが、それ以前の父親からの扱いが掘り起こされることはありませんし、アイアンマンも1作目冒頭で武器商人だったことが時系列順で示される以外に過去が掘り下げられたことはありません。
こうやって見ると日本は特殊なんですが、特にドラクエが輪をかけて特殊です。
それでもVERSION 4での過去語りは――おそらく成田篤史氏の筆だと思うのですが――たとえばウルタ皇女とグルヤンラシュの関係など、物語のピークに達したところで非常にシンプルなセリフで差し込まれるなど、ラノベや漫画の大原則に則ったものになっています。王立アルケミアの先代所長ワグミカも重い過去を引きずっていますが、物語の中心で直接描かれることはなく、上手く劇中に漉き込まれています。
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シナリオ中心に批評してきましたが、VERSION 6で気になるところと言えば、シナリオと同じくらい、というか、それ以上にマップが気になりますよね。
上下差があって複雑で、しかもそれが楽しいならいざ知らず、嫌がらせにしかなっていない。
旧来のRPGだと、フィールドにはモンスターがいて、戦ってレベル上げして、次のボスに挑む、というゲームサイクルがありましたから、新しいフィールドが実装されると「どこをキャンプ地にしてレベル上げをしようか」と試行錯誤が繰り返されたのですが、現状では経験値キャンプというものが廃れています。フィールドに残っているのは、移動ノルマだけという状態です。
そのフィールドで「審判」と呼ばれる試験を受けるのですが、これもほぼゲームではなく、シナリオを見せるための口実に成り下がっています。
しかもこれが『HUNTER X HUNTER』のキリコ、『JOJOの奇妙な冒険』のツェペリさん、『NARUTO』のみたらしアンコ、『鬼滅の刃』のきりや&かなたみたいなキャラに導かれて試験を受けるのであれば、ものすごく面白いと思いますが、残念ながら、審判の天使たちにそこまでの魅力や謎を感じません。同じ食材集めでも、ドラクエ10のフェディーラよりも、HUNTER X HUNTERのメンチに魅力を感じてしまいますし。
この主人公が受けることになる試験も、基本的には1エリア1課題ですが、VERSION 7のぐるぐるゼニアースのように25個の課題を出して、1列ビンゴしたらパスできる風に仕上げていたらゲームとしても楽しめたと思います。
そうすることで、マップの特徴を活かした課題――たとえば、「足跡で、できるだけ大きい円を描け」とか「逃げ出したスライムを捕まえてこい」とか――も作れるので、フィールドの無意味さも軽減されるかと思います。
試験内容も簡単なものから難しいものまで、たとえば「なにか納品する」「エンゼルウナギを釣る」「どこまでもまっすぐ行進する」「寿司を作る」「7日間生き延びる」「アストルティアでいちばん好きなキャラを白チャットする」などなどがあって、成績に応じた景品があって……と、思うところはあるのですが、ここまで来ると予算と工数の問題ですね。
後半・・・
と、ここまで書いたのは6.3までプレイした感想で、6.4はガラッと変わります。
特に6.4が珠玉の出来で、6.5はまたゲーム主導の凡庸なシナリオになるのですが、それでも6.5の敵地へ乗り込んでから交わされるNPCのヴォイス付き会話はキレがあり――
ついにシナリオの真髄を知っているスタッフが帰ってきた!
と、思わず叫びたくなるほどです。
特にオススメは、6.5でリナーシェとともにレーンの村を訪れた際のイベントで、人生経験がないと書けない会話劇です。まさに「書を捨てよ、町へ出よう」の気持ちを再認識しました。
後半冒頭の6.4ではエルドナとレクタリスの「今起きていること/感じていること」がベースで描かれ、危機に陥ったときに回想が差し込まれるという注文通りの展開を見せます。
ジア・ルーベとジア・サフィルのキャラクターもカメラワーク等々のせいでやや気持ち悪くはなっていますが、テキストベースで言えば少年漫画のバトルものの敵に匹敵する個性が現れてます。
いままで書いた不満はなんだったんだと思えるほどの劇的な変化で、まるで孫悟空が駆けつけたか、オールマイトか五条かリヴァイかサイタマが登場したほどに変わります。6.4の構成はドラクエ10全編を通しても最高と言って良い出来栄えです。これを書いているのはおそらくシナリオ神なのでしょう。
ジア・ルーベ、ジア・サフィルはイベント的にはかなり寒いんですが、カメラワークや演出をもう少しセルアニメに寄せた方が良かったと思います。
VERSION 6では時間か予算の都合かもしれませんが、モーションキャプチャーする場面が減っている気がします。会話シーンでもAPFのスーパーマリオネーションかのように首を動かす場面が目立つんですが、いっそリミテッドアニメ寄せで顔は固定で良いと思います。予算はかかりますが、ufotableやScience SARUあたりからアドバイザーを雇ってアフター処理でかける2Dエフェクトをいくつか用意すれば、あとは現場で回せる気がします。
あとは動きですけど、ルーベとサフィルの動きに特別感がないのが残念なところです。わかりやすく言えばジョジョ立ちしたまま喋っても良いのです。シナリオはたぶんかなり舞台を観る人が書いていると思うんですが、実際の画面は凡庸です。動きももっとコンテンポラリー寄りで、たとえば山海塾などを参照すればもっと違った画面を構成できたと思います。庵野秀明が強いのは、そういった異文化を上手く取りいれている点で、野村萬斎をゴジラのモーションに採用するなんて、並の人間じゃ発想できないと思うんです。
ドラクエ10だったらぶっちゃけ、森山未來を雇って(金はかかりますが)ルーベとサフィルのモーション録ったらぜんぜん違ったものになったと思います。回生堂で休んでるルーベにしても、森山未來に変なポーズつけて立たせておけばいいんです。(言い方があんまり)
これはレクタリスが神具を作る際のダンスでも感じたのですが、プレイヤーのモーションには「裁定者の礼拝」「太陽の踊り」「始まりの大魔王の舞」とキレッキレのものがあるのですが、物語の核となる部分のダンスなのに異様なまでに凡庸でした。
たとえばこれがモーリス・ベジャールだったら、土方巽だったら、伊藤道郎だったら(どのひともこの世にはいませんが)どれほど凄まじいものになったか。もちろん、いまの日本でそれを舞えるモーションアクターを探すのは至難の業でしょうが、そこは頑張って欲しいのです。森山未來に。
ちなみに、土方巽も伊藤道郎も鳥肌が立つような動きを見せるのですが、いかんせん古すぎてほとんど映像が残っていません。YouTubeでほんの一瞬だけの映像は見れますが、それだけでも震えが来ます。伊藤道郎なんか明治中期の生まれなんですが、一目で虜になりますよ。スチールの写真見ただけでカッコいい。森山未來にちょっと似た感じです。
普段はあんまり「ゲームを作るならこれも見ておけ」とは言わないんです。何を見るか、あるいは見ないかは自由で、ひとそれぞれに違ったソースを持つから、それらが合わさったときにオリジナルなものができるんだと思っていますので。
でもやっぱり、エンタメに興味を持つ以上はダンスや舞台にも目を向けてほしいし、会社としてもそれを見る時間やお金をスタッフに与えてあげてほしいものです。
と、シナリオを上げて演出を下げてるVERSION 6後半戦ですが、基本的な構成・展開は男塾的で、じつはそれほど両手を上げて大絶賛というまでには至っていません。男塾は大好きなんで全巻持ってますが、ことごとく悪口にしか使ってなくて申し訳ない限りではあります。
基本的に6.5「天に煌めく星のごとく」に入ると、味方は一枚岩で、まさに男塾のようにひとりずつ命を懸けて敵を抑えて進んでいき、そして最後も男塾のようにちゃっかりアスタルジアで再会するんですが、前の章にも書いた通り、ズートピア以前のドラマツルギーです。
基本的に「なぜ個人が犠牲にならなければならないか」「未然に防ぐには何をすべきだったか」を脱構築するのがいまのドラマの基本で、ここまで安易に命を張って乗り越えていくというのは、そもそもの問題が「命を懸ければ覆せる問題に矮小化されている」とも言えます。
たとえば――
ゲームが完成しない、どうしたらいい!?
という場面で、誰かが死ぬ気で働いて解決するとしたら、それは寒いお話です。
スタジオに連絡し、上層部に掛け合い、旧友に頭を下げ、少しずつ軌道に乗せていく中で見限っていたファンも「あいつだったら信じてもいい」と言い始める――
そんなシナリオが見たいんです。
ただしこれは、シナリオライターに話が来た時点で「魔眼の月」に乗り込んでからの展開は決まっていたと思いますし、どこを批判すれば良いか迷うところです。
つまり、シナリオライターは与えられた発注のなかでは最高の仕事をしたんです。そして発注した製作、あるいはレベルデザイン側にはシナリオへの深い理解はありませんから、自分たちが見て育った漫画やアニメをベースに仕様を決めた――誰が悪かったという話ではないのだと思います。
ならば、どんなお話ならよかったのか。
と、問われると、一例ですが――
魔眼の月へ乗り込むときには英雄たちはそれぞれの国を守るために帰っており、主人公がピンチに陥った際に、
「この国のことはもういいから、あなたは主人公を助けに言って」
のようなやり取りがあって、ギリギリで駆けつける――
のようなものだったら滾ると思います。
もちろんそうなると、6.5で実装されているギミックは大幅に変更になりますし、そこを責任持って方針を決められるのはトップだけだし、そのトップにしても予算や時間の都合でこの手法を選択した可能性がありますし、こういうのもすべて後知恵だから言えることですね。
まとめ・・・
――と、全体の構成については疑問がありますし、特に前半は下げまくった感想になりましたが、とは言え、じつはVERSION 5が暗くてあまり良い印象がなく、最初にVERSION 6のマップを歩いたときの感想はそう悪くありませんでした。ちょうどマイタウンを入手した頃でもあって、それなりに楽しんでプレイはしていました。
今回の感想はリプレイしてのものです。天使の酷い印象をあとあとまで引きずってる気がします。カンティスとヘルヴェルとアラクレスは本気で嫌いです。
と、嫌いなキャラを挙げても仕方がありませんので、このあたりで恒例の「好きなキャラ・好きな場面」のコーナーに移りたいと思います。
好きなキャラ
ピコ
ギャル系のプクリポ。
またプクリポか!
って感じですが、そうなんです。プクリポなんです。ウェブニーとか、パルミオ博士とか、パクレ警部とか、プクリポには良いキャラが多すぎます。選外ですが、VERSION 6のプティーノも良いですね。
魔窟アラモンドは、天界の反対に位置するところで、そのアラモンドを象徴するキャラクターです。すなわち天使と正反対の存在のはずなのに、誰よりも天使っぽく感じるところがまた良いです。
ただ、ストーリー的には「天使と正反対がピコ」というのは意識されておらず、ここはまだ広げようがあると感じました。
アリア
リナーシェの妹で素直な頑張り屋さん。アホ毛。
ドラクエ10の3大アホ毛は、リィン、リルチェラ、ポルテだと思っていたんですが、ここにもいました。
ちなみにリナーシェの神域への導入はWorld of WarcraftのDeepholmを意識していると感じました。○○のピラーなどへフライングマウントで乗り込む場面も、Northrend上空を飛んだ時の感触と似ていますし、WoW好きが混じってるなと思いはしましたが、もうちょっとがんばって! と感じたのも事実ですね。もちろん、与えられた環境のなかではがんばってますし、ぜんぶスクエニ上層部が悪いんです。開発のせいじゃありません。石はぜんぶ上層部に投げよう!
https://www.youtube.com/watch?v=2GXEmAo0MuQ
エルドナ神
女性キャラばっかりやんけ!
と言われそうですが、いやいや、VERSION 6で男性キャラでこれは!ってひと、いましたっけ?
あ、ドルタムはいいですよね。カブもいいです。ハクオウはちょっと拗らせすぎているので、4コマ漫画ネタに良いかもしれません。ナドラガ神も、将来の姿がチラチラしなければ、かなり良いです。パルミオは良いけどVERSION 6のキャラではないし、天使はみんなクズ……あ、先代天使長のゲゼルマインはちょっと良いかもしれません。
好きな場面
妹(姉兄弟)がワグミカ宅に乗り込む場面
あの居丈高なワグミカに対して「こっちは魔仙卿まで勤めた女だぞ」と思う一方で、ハツラツ豆でやらかしたようなドジは魔仙卿時代にも継続してたこともうすうす感じているハラハラ感もあり、妹が口を開くたびに「それほんとなんだろうな」という疑り深い気持ちが芽生えずにいられませんでした。例えるなら、ITに詳しい知ったかぶりの後輩をMicrosoftとのビジネス交渉に連れていくような感覚ですね。
巨大化して戦う場面
ロマンがありますよね、巨大化。
巨大化した際の描写って、動きをゆっくりにすることが多いんですけど、ここでは普通の速度で戦えて気持ちよかったです。
シン・エヴァンゲリオンのラストで、おもちゃみたいな雑な世界で戦いますが、あんな感じと言いますか、表現はそれでいいんですよ。
妹(姉兄弟)がエテーネ村に帰ってくる場面
またまた妹(姉兄弟)ですが、普通に考えると、最終回の絵面ですね。
そのまま「End」って出てもおかしくないです。
あのハツラツ豆をだめにした妹が……魔仙卿になっていろいろやってたっぽいけど理路に疑問のある妹が……ナドラガンドでももうちょっとマシなやり方あっただろうとツッコミそうになる妹が……
そもそもVERSION 3と5はいろいろと展開に無理があるんですが、「妹がやらかしてた」と考えるとすべてがストンと落ちてしまうのがポイントです。まあ、頑張ってはいるんですが、リリオルの行動ともども、どこかしらおかしい子でした。
――その妹が生まれ故郷に帰ってきたんです。
こんなに嬉しいことはありません。
しかし、これをここでやっちゃったら、「大団円」ってマジでどうするつもりなの?
クエスト750 歌姫の贈り物
本文中でも触れたリナーシェがレーンの村を尋ねるクエストですが、実はここ以外でもセーリアはライターからけっこう遊ばれてて、その微妙な言葉の感覚がとても良いです。ライターの才気を感じる部分ですね。どれほど構成に疑問を持とうとも、これがあるからドラクエ10は止められません。
さいごに・・・
VERSION 6.3「魔眼の月が昇るとき」のラストなどに顕著なのですが、真新しい表現を散りばめた非常に野心的なバージョンとなっています。
わたしなどは学生時代に見た寺山修司やタルコフスキー、あるいは相米慎二の画作りに憧れ、たとえばシン・エヴァンゲリオンを見た際にもどこかしら寺山の匂いを感じて陶酔していったものですが、そういう「特殊な共鳴装置」を持ってしまった世代のひとと、いままさにその共鳴装置が形成されつつあるひととでは感性が違うと思います。
わたしには正直、VERSION 6の表現は馴染めませんでした。だけどこれが響いているひとは確実にいますし、そのひとたちが新しい道を築いて行くのだと思います。
繰り返しの指摘になりますが、基本的に過去語りで進む物語というのは、熟練のライターだったら避けると思います。わたしもそれを内面化してか、ひどい拒否感があります。しかし、最近では漫画の多くが過去語りを物語の核に据えるようになりました。
それに、その回想ばかりのイベントも、まともに読むとかなりの熱量と深みとが感じ取れます。
足りないものはいくらだって指摘できます。しかし、かと言ってわたしが指定するもの、寺山やタルコフスキー、あるいはメンチやアンコを足したからと言って決して正解にはなりません。実際に、VERSION 7では一部それらを超越しているかに見える部分もありますし、いま足りてないものなんか、逆にどうだっていいのかもしれません。VERSION 5で指摘したフェイスモーションがVERSION 6で実装されたように、わたしの感想などは置き去りにして、どんどん成長していくのがドラクエ10のスタッフなのだと思います。
演劇にモノドラマがあり、ミステリーに安楽椅子探偵があるように、ゲームのシナリオ表現も従来の形にとらわれることはなにもないと思います。形ではなく、あるいはもう技巧でもレトリックでもなく、そこで語られたことがすべてなのです。
とは言え、ライターの実力のばらつきが気になります。
シナリオを担当した藤澤仁、成田篤史というライターはわたしなど足元にも及ばない紛うことなき天才であると言えるでしょう。ドラクエ10はこの両名のものだと言って過言でないほどです。
藤澤氏が抜けたいま、更にこの先成田氏が定年を迎えるとしたら、スクエニにその続きが作れるかとなると、正直、難しいのではないかと思っています。
たとえばアニメ界を見ると、80年代末から90年代にかけて、小山高生が主催したシナリオ教室からじつに多彩な顔ぶれのシナリオライターが輩出されました。アニメ界屈指の実力とセンスを持つ吉田玲子(ガールズ&パンツァー等)を筆頭に、花田十輝(ラブライブ)、荒川稔久(仮面ライダークウガ)、あかほりさとる(サクラ大戦)とタレントが揃っています。小山氏本人には失礼ながら、みな師の実力を凌駕しています。
当時の少年ジャンプは多数の漫画がアニメ化されて、それはそれは凄かったのだ――と、伝説のように語られますが、シナリオの書き手がいなければアニメは成立しません。そこに小山は、シナリオはすべて自らチェックするという条件でプロデューサーを説得し、教え子を送り出したのです。ジャンプ黄金期を支え、発行部数500万部達成の後押しをしたのが小山高生のシナリオ教室なのです。
他方、ゲーム業界はどうかと言えば――ここまでの感想で触れた通り、シナリオライターが気をつけなければならないことは、構成や表現から発声からコンプライアンスから、さまざまな要素がありますが、現在これを統括して扱えるライターは数えるほどしかいません。たかがコンプライアンスで躓いているひとだらけですよ。
アニメーションでいうシリーズ構成や文芸担当をカバーできるひとも限られています。ゲームでは更に、ゲーム性とどう接続させるか、バージョンアップでの拡張性、非破壊的なクエスト実装など、考えるべきことは更に増えます。これらをすべて奇跡的にカバーしていたのが、藤澤仁氏と成田篤史氏だった……ということが、ドラクエを通してプレイして感じたことです。
いろいろと書きましたが、一方では時代は変わっているのだと思います。わたしが言うような手法はすでに古いのかもしれません。それを超える新しい手法がもうどこかで生まれているのかもしれません。
いまはもう、我が身についてしまった技巧は変わることもなく、記憶の劣化とともに錆びゆくばかりで、成長の途上にあるものが羨ましい限りです。