まず、自由はアプリオリじゃない。
古代、人間は社会に縛られていた。
「自由」という概念が生まれたのは「貨幣」が流通して以降。
以来、「貨幣」が「自由」であり、言い換えれば貨幣に束縛されている。
自由とは社会の束縛から逃れ、自らを言動の主体とすることである。
自由によって責任を負う主体も、「社会」から「自分自身」に移る。
「自由」というのは自分で決定することであり、無限の責任を負う。
それは「貨幣」を通して社会に束縛されていることと意味を同じくする。
また、弊害として「貨幣による束縛」が生まれた。
たとえば古代、干ばつで作物が採れなくても農民だけが責任を負うことはなかったが、貨幣経済以降、干ばつでは農民だけが「負債」を負うようになった。
かつて人は社会に縛られていたが、貨幣を通して、人は人に縛られるようになった。
近代で言われる「自由」は、人間同士の束縛からの解放を指す。
この意味の「自由」が生まれて200年くらいしか経ってない。
「自由」は「自ら決定し、責任を負うこと」と言い換えうる。
「束縛されないこと=自由」だと考えるとしたら、そんな自由はない。
よって、「表現の自由」も「表現を束縛されないこと」と捉えるなら、そんなものはない。
「表現」には無限の責任がある。
またその責任は双方向であり、表現する側にもあるし、受け止める側にもある。
なぜならば、行動の全てに責任が伴うからだ。
「表現されたあらゆるもの」は、責任をもって受け止められるべきだ。
「表現の自由」とは、「表現の責任」と同等である。
また、「表現の自由」と「著作権」とは切り離して論じなければいけない。
著作権は資本主義制度の下位規範でしかない。
著作権とは、独占的に経済利用する権利を指し、アプリオリではない。
資本主義が解体されれば著作権という制度そのものが変わる。
まとめると――
自由とは、
己の言動について自ら決定し、
その無限の責任を己で引き受けること。