さわり
さて、今回は『ドラゴンクエストXオンライン』のシナリオを中心とした感想の第7回目、VERSION 7を中心にお届けします。
注意書きはいつものように、
所詮は後知恵でしかなく、0から作り上げたスタッフの努力や才能を否定するものではないこと
VERSION 7までのネタバレが含まれていること
ですので、これを念頭にしてご覧ください。
VERSION 7 未来への扉とまどろみの少女
ここまでのお話で、女神ルティアナがいずこから来たのかがぼんやりと判明し、主人公たちが戦ってきた魔王たちの根源的な存在が見えてきました。
VERSION 6では、その根本の悪党である「ジア・クト」を退治しましたが、VERSION 7では、女神ルティアナの故郷で太古の時代に何が起きたか、が描かれます。ひたすら過去へと話を巻き戻すドラクエ10は、いまだ健在です。
そのVERSION 7、感想をひとことでまとめると、微妙な前半と神がかった後半、になるのですが、まずはそのまえに、通して目についたカットシーンの進化あたりから触れましょう。
カットシーンの進化
VERSION 7に入ってまず驚くのは、カットシーンのレイアウトの良さでした。VERSION 6から引き続きなのですが、本当にカットシーンの構図は白眉です。もちろん、モーションやモデルなどがいささか地味であることは否めず、効果音が不足していたり、エフェクトがしょぼかったり、最近のセルアニメでよく見られる2Dでのアフターエフェクトもほぼ皆無という数世代古い表現ではありますが、レイアウトの良さを見る限りスタッフの腕は確かだと実感します。
とくに目を引いたのは、ガナン帝国に乗り込んだ際の、グランゼニス神と主人公+ポルテの短いやりとりで、グランゼニスがかっこよく敵を斬って、決め顔で振り返ると、主人公が拍手していて、それをポルテが隣で見て呆れている――という構図でしたが、いままでのドラクエ10では見られない表現でした。
この場面のフローはおそらくシナリオライターがト書きで指定していると思われますが、これまでのドラクエ10のカットシーンの傾向は、シナリオライターはセリフのみを書き、スクリプターがモーションを付ける、という古い分担がされているように感じていました。つまり、セリフのないキャラは動かないし、カメラが抜くこともなかったのですが、VERSION 7ではカメラが注視していないキャラも小演技をするようになりました。
こういう部分を見ているユーザーは少ないとは思いますが、だから無用というわけではなく、これらの表現でストーリー密度は上がり、トータルでは尺やリソースの節約にもなりますので、テクニックとしては知っておくに越したことはありません。
ガナン帝国クリア前後からのシナリオは先にも書いた通り神がかっているのですが、演出ももまた目を見張るものが増えます。
基本的にドラクエ10のカットシーンには、大張正己バリの武器を前に出したパース、股抜きショット、肩越しショット、前景スクロール、などが使われていませんでしたが、このあたりから使われるようになります。(ただ、魔界にアンルシアが攻めてくるカットシーンなどピンポイントではあったかもしれません)
ライティングやエフェクトも意識されて、テキスト外の音声も増えて、よりアニメっぽくなります。
VERSION 5の感想で述べた「ガヤでいいぶんまでテキストが表示されている」も解決され、ガヤはガヤで喋るようになりました。こういう変なところに注目してしまうのは、おそらく職業病です。同業者はみんなここを見てると思います。
ただやはり、アニメと比べると足元にも及ばないため、これらの技術向上もあまり目立ったものではありません。
表現力では『呪術廻戦』『鬼滅の刃』『スパイダーバース』どころか、Creepy Nutsの『Bling-Bang-Bang-Born』、こっちのけんとの『はいよろこんで』にすら(にすら、ってのはひどい言い方ですがバジェットを比較すると比ではないので)負けますが、スタッフの腕は確かだと思います。
問題はおそらく、カネなんです。
集英社系の漫画のアニメ化も、昔は金がなくて絵面は酷かったんですが、数年前から集英社が「アニメが宣伝になる」と気がついたのか、予算規模で言うと3倍くらいに跳ね上がってると、バンナム勤めの友人が言っていました(ウソ情報だったらコイツのせいです)。アニメの制作費が3倍になったところで、宣伝費用に比べたら屁みたいなもんですから、それで漫画の売れ行きが何百万冊という勢いで増えるのなら出さないほうがおかしいですよね。
他方、ドラクエ10はどうかと言えば、制作費をかけても返ってくるお金はないわけですから、ビジネス的な視点から見れば金などかけられないわけで、作品やスタッフが云々以前の問題として、ビジネス構造的にもう無理な雰囲気が漂っています。
ビジネスで気を吐いているのは制作よりも宣伝のほうで、実際にゲームをプレイしていても、ゲームそのものよりもスマホとの連携やコラボやリアルイベントに力が入っているのがわかります。
これもまあ、構造的な問題で、いくら「宣伝よりコンテンツに金をかけろ!」と叫んだところで、ない袖は振れないのですから仕方がないのでしょう。必然、提携でカネを引っ張れる宣伝方面に寄っていくのでしょうが、これはプロデューサーよりも更に上流で決まっているものと考えて良いでしょう。
バレエの舞台やクラッシックのコンサートをゲーム内で視聴できる「グランゼドーラ劇場」もVERSION 7で実装されましたが、閑話ついでに思うことを書きますと、ヤバいんじゃないかと感じています。
その理由はまず、「グランゼドーラ劇場のコンテンツを目当てにユーザーが増える」可能性がほぼ皆無であること。
もしグランゼドーラ劇場を客呼びに使うとなると、ライバルはNetflixやUNEXTあたりになるわけで、コンテンツ量でも価格でも勝負になっていません。するとつまり、ゲームのプレイヤーからお金をいただくことになるんですが、「NetflixやUNEXTに負けているコンテンツに1回あたり3000円払わせる」のは、わたしは酷だと思います。
これを追加料金なしで見せれば、「ドラクエ10をプレイすると、コンサートの配信がタダで見れるよ!」と、口コミ効果が期待できますが、現状ではその導線はありません。
それどころか、このまま「制作が自分たちの方を向いていない」という誤解を与え続けたら、ユーザーは離れていく一方です。
それにおそらく、コンテンツを提供する側にしても、NetflixやUNEXTよりも実入りが薄いと思われます。その状況で上質なコンテンツをひっぱり続けられるかどうかにも疑問があります。
「あかほりさとる」という、かつて少しだけ接触のあった脚本家がおりまして、わたしと同じ複数アカウント使いで、わたしが把握しているだけでも8アカウントを持っている廃プレイヤーなのですが、彼がエリア買いしてる住宅地「ポーリーランド」に「劇場」というものがあります。
たしかガタラの住宅街だったと思いますが、まるでサクラ大戦か何かのような世界観設定でハウジングを行い、それらのキャラが立つステージまでもが用意されているのです。
ちなみにわたしも似た感じの遊び方をしており、マイタウン1件(ことりの森)と、ガタラの4822番地全丁目、ジュレットのジャングル地区4686丁目を自キャラに独占させていますが、あかほりほどにはハウジングに力を割けていません。
で――わたしが「劇場」と聞いて思い浮かぶのは、むしろこちらでした。
コンサートの配信を行うくらいなら、ゲーム内の登場キャラクターを使って舞台で飛び跳ねさせたほうが遥かに楽しいと思うのですが、これもまあ、金がかかるのでしょう。
折も折、つい最近『Link!Like!ラブライブ!』が大赤字を抱えてサ終しましたよね。それを鑑みるとまあ、難しいのだと思います。
微妙な前半
さてさて、のっけから話題がそれてしまってますが、シナリオの感想がどうだったかと言えば、最初に書いた通り、前半は「微妙」で、中盤の「ああなるほど」を経由して、終盤は「神かよ……」でした。
その微妙な前半のシナリオですが、一言で言うなら、「粗い」です。
導入は非常に流れが良く、すぐに3ルートに別れ、3本のエピソードを並行で描くのですが、それぞれに規模感が小さい割には町や村や国家規模のお話を解決しているので、描写不足のまま――少し乱暴な言葉をつかうなら、あらすじを読まされるように物語が展開します。
構造的にはVERSION 2.0も同じだったのですが、VERSION 2.0がキャラクターの内面を中心に物語を追ったのとは対象的に、VERSION 7.0では非常に観念的に物語が展開します。
ムニエカのエドアルド、メネトの村のトープス、アマラークのリズクと、どれもプロット都合で動いているように感じました。
基本的に自分で自分を語る場面が多いためにそう感じたのだと思います。普通のドラマは会話の掛け合い(衝突、誤解、発覚など)によってテンポや推進力が生まれますが、自分語り、いわゆる演劇で言うモノドラマは語り口が難しく、そこそこの場数慣れが必要なのではないかと思います。
ちなみに、わたしはモノドラマ的に喋らせるのが大好きで、おそらくドラクエ10のメインライターの成田氏もそうではないかと感じています。あとたぶん、舞台好きですね、きっと。
物語があらすじっぽいのは、ストーリーの骨子にも原因があり、調査隊に参加したメンバーがもっと際立ったキャラであれば、あらすじ臭さを軽減できたかもしれないと思います。
たとえば、「なんで呼ばれたかわかっていないワグミカ」「無理くりついてきたパルミオ」「食い扶持を求めて紛れ込んだキャット・リベリオ」「興味本位でついてきたルベカちゃん」あたりがフォロワーだったら、彼らの無駄な行動をトリガーとして物語を転がしやすくなります。
オススメは、「トラブルメーカー」と「分析・ツッコミ役」と「チートキャラ」の3人セットです。パルミオが先走って、リベリオが「ちょっと待つにゃ」とか言って制して、最後はワグミカが文句を言いながらなんとかします。
これがヒューザとアスバルでは、目的はすぐに「敵を倒す」で一致するので、プロットを進めるのには向きますが、物語はあらすじ的になります。
物語を書く時に、たとえば天使のトープスで例えますが――「トープスはなぜこの選択をしたのか」と、キャラクターの「動機」を中心に考えるひとがいる――むしろほぼ全員がそうかも――と思いますが、わたしはあまりよいやり方だとは思いません。
動機というロジックで考えずに、ただトープスはやりたいようにやって、状況はそれとは別にやってきて、その因果のない結果に戸惑い、苦悩する、のように描いたほうがはるかに深みが出ます。(ぶっちゃけVERSION 7の後半はそうなんですが)
ただし、グループで制作する際にこの動機軸を外したプロットはなかなか通りません。プロデューサーやディレクター初め多くのスタッフがロジックでものを見るためです。
芥川龍之介に『蜘蛛の糸』という短編がありますが、主人公のカンダタが蜘蛛の糸を掴んで極楽へ登ろうとするとき、追いすがってくる亡者たちに「来るな」と叫ぶと、糸が切れます――が、これを多くのひとは「カンダタが身勝手な言葉を発したから切れたのだ」と考えます。
しかし、芥川龍之介の他の著書を見る限り、蜘蛛の糸はカンダタの人徳とは無関係に切れたと考えるのが自然です。『歯車』などを読むと、因果のないものに因果をあてはめようとすることへの嫌悪が書かれています。
『蜘蛛の糸』の作中でも、お釈迦様がカンダタを救うつもりで糸を垂らしたのか酔狂だったのかすらわからないように描かれていますし、そのあたりの無常さが龍ノ介の本質かと思います。
だけど多くのひとは、そこに因果があると感じて悩み、それが物語:今流行りの言葉で言う「ナラティブ」になります。
文芸的に横道に逸れましたが、この、ナラティブから組み立てたのが、VERSION 7の3ルートのサブシナリオのように思えます。
とは言え、近頃では猫も杓子もナラティブを語りますので、ナラティブを軸に物語を組み立てるのは自然ですし、多くのひとが普通に受け入れますし、ゲームやアニメのシナリオ、あるいはラノベの多くが、そうやって書かれていると思います。
それを根拠としてVERSION 7前半のストーリーを下げるのはとんだ言いがかりにしか聞こえないかもしれません。
ではわたしが、ナラティブではない何を評価の基準とするか、ですが、そこで念頭に置いてほしいのが、先に登場した芥川龍之介と同時代の文人谷崎潤一郎の間で交わされた「筋書きが重要であるか否か」の激論です。
谷崎潤一郎は『春琴抄』や『痴人の愛』など、退廃的で破滅的な人間像を描いた小説家ですが「筋書きが重要である」と説きました。
他方、龍之介は(自分では『芋粥』や『河童』など筋書きの強い作品を書きながら)、「小説の本質は筋書きではない」と説きました。
ここで、わたしが推したVERSION 6の「歌姫の贈り物」なるクエストを思い出してください。
わたしはその前のVERSION 5の感想に書いた通り、「命をかけて仲間を救うお話」が好きではありません。「《命をかけたら解決する》のは安易である」ことと「《命をかけること》が美化されて伝わる」ことが主な理由で、問題の解決は「なにが障害になっているのか」をつぶさに分析(脱構築)して論理的になされなければならないと考えています。
そして非常に残念なことに、VERSION 6はゴリゴリに「命をかけて問題を解決する話」でした。はっきり言えば「命をかけたら解決しました」などと言うのは、ただの「シナリオの破綻」なのです。
ただ、それでもドラクエ10が好きなのは、「歌姫の贈り物」にあるような細やかなキャラクター描写があるからで、それを前にしたら、プロットがどうあろうとも屁のようなものです。
話は戻りまして、芥川龍之介と言えば、人間の実存の奥底を暴き出した作家ですし、その龍之介が「小説の本質は筋書きではない」と言うのですから、ならばきっとその本質は「人間の本性を暴き出すこと」に違いない――となりそうな気もしますが、そうではないんです。
龍之介は小説に詩情や情感、描写の端正さ、構成や言葉の美を求めました。川端康成や三島由紀夫の小説を思い描いてもらえると、近いかと思います。あかほりさとるではありません。
わたしも(龍之介が言ったからというわけではなく)その考えに賛成で、ぶっちゃけて言うと筋書きが「命をかけて解決する話」であっても、魅力のある筆で魂に訴える文章が書かれていればそれで良いと考えています。
と、そんなわたしに、VERSION 7の前半の展開はイマイチ響かなかったのですが、これもすなわち「筋書きが悪いから」ではありません。
最初こそは「こりゃあ筋書きが悪いよ」と考えたものでしたが、そこから順当に、では筋書きを修正すれば良くなるのか、と考えると、そうでもないんじゃないかと思い当たった次第です。
ぶっちゃけトープスを例にするなら、ティセの前で無言で現代ダンスでも踊って、言葉ではなくざわざわとした感触で伝えられでもしていたら、それだけで惹かれた可能性はあります。わたしにとっては「誰が、何を考えて、何をしたか」の情報こそが余計なんです、きっと。
――と、そういう意味ではマギエルの登場シーンはとても良いのですが、良かったら良かったで、ライティングが物足りないとか、もう少し舞台を広げたかったとか、引きのショットが欲しかったとか、いろんな要望が生じてしまうのではありますが。あと、セルアニメのように割を前後で詰めたほうが動きにキレが出そう……なのですが、これはやりすぎると揺れもの(マントや髪の毛)が暴れるので要注意です。
話はズレまくりますが、ヨナというこのバージョン中で3番目くらいに特異なキャラクターがいるのですが、キャラは非常に尖っていて良いのですけど、登場が普通過ぎました。
たとえば西川貴教が、スポットライトとスモークのなかでポーズ決めたまま奈落からせり上がって来たら「おおっ!」と思うじゃないですか。そんな驚きがほしいんです。ジュディ・オングが蛾のようにドレスを広げたら「来たぁっ!」と思うじゃないですか。あるいはジャイアント・ロボで無名のロボットが攻撃準備に入ったとき、トップをねらえでバスターマシンが姿を現したとき、ドキドキしたじゃないですか。そんな期待もなく登場するから、いまいち感情が動かず、奇を衒ったテキストを書いただけの場面に見えてしまいました。
そしてまたこれも、VERSION 7後半、特異なキャラクター第1位のザジザディリの描写ではかなり解決されていくんですよ。すごいですよ、このチーム。
と、見てきたように、VERSION 7前半のシナリオには不満が高く、おかげで7.3でゼネシアが裏切った際も、「また大仕掛け頼みの雑展開か!」と思って醒めてしまったわけですが、これは作り手としても損だったと思います。
その後のどんでん返しに次ぐどんでん返しで、ポルテが諸悪の根源だったとわかったときも「はいはい、そうでしょうよ」くらいの気持ちになったのですが、みなさんどうでしたか?
正直に言えば、グランゼニスがふたりの女神を作り出し、世界を統べさせたという設定も、開発者の気色悪さばかり感じて苛立っていました。
そして、怒涛の後半戦
後半は、ここまで書いたものの反対だと考えてください。
「雨の島に行ってごらん。
「結晶の海の彼方……
幻の世界樹が あるところだよ。
というセリフがあるんですが、もう、これだけで痺れますよ。
欲しかったのはこの詩情と、このセリフをもたらしたプクフルの不意の登場で、ここで完全にスイッチが入りました。
ついでに書くけど――
「まだ花も蕾のお嬢ちゃんだ」
というセリフはちょっとキモいのでやめてほしかったです。年寄りしか書かないセリフだと思いますが、このあたりは若手が変えていってほしいです。
ぶっちゃけこのゲームは年齢による実力差はない世界ですよ。神話や民話で子供が活躍することは日常茶飯時で、そこで若さを理由にものを言われるのは、文脈が混線しています。リアリティとしてこれを伝えたかったのかもしれませんが、リアルではコンプライアンスに片足がかかります。
ちなみに米国では採用面接の際に年齢を聞いてはならず、20代の若者であれ、70代の年寄りであれ、能力に差がなければ同じように働きます。日本では就職時の面接で年齢や健康状態を聞かれるのが普通ですが、そういう意識から変えていかないと、現代に通用する脚本って書けなくなると思うんですよ。
閑話休題。
まあ、7割は閑話ですが、置いといて。
VERSION 7後半で特に語りたいのは「詩情」です。
おそらく成田篤史の筆であろうと思われるのですが、ドラクエの笑いもペーソスもある緩い世界を描ける一方で、同時に非常に舞台っぽいセリフも書き、アニメっぽい展開も手掛け、詩情溢れるテキストまでこなすシナリオライターってのは、かなり稀有な存在だと思います。アニメで言えば、大河内一楼や吉田玲子などのトップに並ぶ、あるいは超えるのではないでしょうか。
と、メインのライターを上げながら言うのも変な話ですが、VERSION 7の前半ではずっと「グランゼニスがクソだ」と感じてきました。
女神ふたりを作り出し、両脇に侍らせて世界を統べさせて、己はトップに君臨しているのですから、そういった著者の願望が現れているか、あるいはユーザーの願望が映されているのだろうと思って見てきました。
酷いことを書いているように思われるかもしれませんが、これでもまだゲーム好きが見た割り引いた批判でしかありません。オタクのキショい世界観が丸出しになったものとして忌避されてもおかしくはないです。
ところが後半、グランゼニスが冒した失敗に関して描かれ初めると印象が変わってきます。
詳細はサブシナリオまで見て、ドラクエ9の情報やゲーム外の公式発表まで見なければわからないのですが、それがゲーム内の断片的な言葉だけで端的に描写されます。
それが、長ったらしい背景の説明ではなく、飽くまでもキャラクターの内面を描くための舞台装置として添えられます。
グランゼニスとふたりの女神の関係も順を追って紐解かれていくのですが、それがわたしのなかの「グランゼニスキモい」と「ゼネシアわけわからん」をかき消しました。
ストーリーのなかではっきりとは書かれないのですが、女神ゼネシアは妹のルティアナに対して強い嫉妬心を抱いていることが示唆されたのです。
VERSION 7.3でゼネシアは敵対的立場へと移行するのですが、この時点ではその嫉妬心ははっきりと描かれておらず、なので表面的には、「制作がもっと強いボスを設定するためのプロット都合で裏切らせた」ようにしか見えません。前半の少し経験値の足りないライターの筆や、グランゼニスの変質者っぷりからもそれが伺えます。
しかしこの、「ゼネシアのルティアナへの嫉妬心」を掴むと、いろんな謎がスルスルと解けるんですね。
グランゼニスの気質を受け継ぎ、自らも「創失」の呪いに苦しめられている自信家のゼネシアのもとに、「これですべて解決します」と言って、ルティアナが創造した神がやってくるのですから、内心たまったもんじゃないですよ。
たとえるなら――自分は実家に残って父親の面倒を見ているのに、妹は家を出て7人もの子に恵まれて優雅に暮らしているんですよ?
そこに救世主として甥が尋ねてくるんですよ?
しかも父親と同じ名前をつけられているんですよ?
お父さん大好きかよ、クソが。
あの面倒くさい父親に鳥籠に閉じ込められて苦しんでたのはこっちだぞ、わたしならジア・クトも退けられるのに、あのクソ親父が何もさせなかったせいで、民は滅びかかってんだぞ?
おまえその間、なにしてたよ。
手紙のひとつでもよこしたのかよ。
――みたいな背景があるわけですから、そりゃあ、石化させて神器も奪うでしょう。
このへんで、ああ、わかる、俺も実家のこと弟に任せっぱなしだわ、と、現実の風景が交錯してゼネシアに思い入れていると、今度は「ルティアナも父親から創失の呪いを受け継いで苦悩していた」と知るわけですよ。
都会に出て幸せな家庭を築いて連絡もよこさなかった妹が、実は苦しんでた――って、もう、ここ読んでダメでしたね。
なんというか、女神と主神の話として描かれてるけど、普通にこれ有島武郎とか横溝正史で読める話やんけ、と。
そういったゼネシアの苦悩のドラマが見えてくる一方、妹ルティアナが作り出した「アストルティア」の化身たる存在がポルテで、ポルテを介してゼネシアは妹と再会を果たしているんですね。
しかもポルテはゼネシアを「ネーしゃま」と呼んで慕い、ゼネシアの犯す罪に対して、ぎりぎりで踏みとどまった寛容を見せる。
実質的にポルテはルティアナの代弁者と捉えられるのですが、このふたりは互いにニックネームをつけあった間柄でもあります。
この「名前を与える」と言う行為は、象徴的に言っても「父の支配」から「お互いに尊重しあった存在」への変化を現していることに、このあたりで思い当たりました。
もしかして、すべて計画通りだったの? みたいな。
VERSION 6でも感じたんですが、前半は新人に経験を積ませて、後半はおそらく成田本人が出てきて、それらを集収する、という構成になっているように見えました。
VERSION 7も――これはあくまでも外から見た感想であることに注意してください――同様に書かれていると思うんですが、前半は妙に素人臭く、そのせいで作品全体を見誤った部分がありました。
もちろんこれはVERSION 4はハインライン的で云々などと述べている年寄りの意見であり、若者は若者が共通で持った物語や文体がありますから、「VERSION 7の前半がいちばん響く」というひとはいると思いますし、その感性は間違っていません。
わたしが指摘しているのは「経験値」のことで、前半を担当した若手と、全体を統括したベテランの差は「最後まで軸を通せるか」「その軸をプロジェクトに提案できるか」「提案したものを最後まで作り通せるか」のような、端的に言えば物理的な体力に近いものです。
そしてドラクエ10のおそろしいところはここで、若手が書いたと思えるちょっとやんちゃで雑な物語も、ベテランが無理に形を整えることなく、同世代だけに通じ合える記号のようなものは生のまま残して調理しているところです。
ぶっちゃけゲームも漫画もアニメも、自分たちと同世代が書いたと感じられるようなシンパシーがなければ拒絶されるのです。たとえば「大友克洋はめちゃくちゃ絵が上手いからキャラクターデザインで採用しよう」なんてことになったら、それがどんなに上手かろうが拒否されますよ。「劇場でバレエを見せよう」も、そのせいで「これは自分たちに向けられたゲームじゃない」と判断されるリスクを内包していますし。
と、わたしにとっての脱線は通常運転の証ですが、VERSION 7のラストでは、主人公が創失した世界で、「ポルテ」=「女神ルティアナが創造したアストルティア」が完全に消えていくんですけど、そこにゼネシアが現れて、アストリティアを再生してみせるんですね。
この場面は、妹の作った世界を救ったかに見える一方、ゼネシアの「ほら、世界の創造はわたしにしかできなかったでしょう?」という妙な功名心も見て取れて、ゾワゾワしました。最後の笑顔が、慈愛にも、嗜虐にも見えるという、ほかのゲームでは味わえない感覚でしたね。
VERSION 4はヴェルヌ+ハインラインっぽくて、VERSION 5は男塾っぽい、VERSION 6はレンズマンか?と思わせながらこれもやっぱり男塾でしたが、VERSION 7はガルシア=マルケスの『百年の孤独』を彷彿としました。
『百年の孤独』では、最後にはマコンドという村は消えてなくなるんですが(ここだけの話、MOTHER 3も凄く『百年の孤独』っぽいです)、VERSION 7ではマコンド村は再生されます。
ドラクエ10の筋書きのベースは「命をかけて問題を解決する話」で、今回もその色が見え隠れするんですが、その端々の描写を見る限りにおいて、実存主義的なリアリティは前向きに批判・解体されているようにも見えます。
たとえば、主人公の母であるマローネが、変わり果てた自分の子を子だと認められずに狂乱状態に陥っていく、というストーリーに変えれば、それはそれで魅力的なものになる気もしますが、むしろいまのアニメや漫画ではやり尽くしちゃったパターンのようにも思います。
だから、そこはもう様式美として割り切って、「筋書きなんかどうでもいいんだよ」くらいの感触で、細部の描写で文学性を高める――芥川龍之介が筋書きを否定しながら、『鼻』や『河童』のように紋切り型の物語を披露する一方で、芸術性を研ぎ澄まし、その奥底で人間の実存にも触れたような――『文芸的な、余りに文芸的な』試みなのかもしれないと思ったりします。
天使マギエルが、「創生の力はずばり『愛』だ」と言いますが、わたしはドラクエ10にその「愛」を感じずにはいられませんでした。
これは『小さな宇宙人アミ』や『バシャール』に見られるスピリチュアル系の思想で、古くはおそらく近代神智学のヘレナ・ブラヴァツキーあたりに由来し、前章でたしか、ドラクエのテキストはロゴス的ながら思想の非ロゴス性とうまく接続していない、と指摘したんですが、そも非ロゴスとの接続がロゴス的に説明できるはずもありませんし、そこをつなぐのが詩情なのでありましょう。
「愛」というのは非哲学的・非言語的な存在であり、「理解」したときには形骸化して消えるような儚いものだと思います。
ラスト近くで見られる――
「幸福であれ
日々を笑顔で送り 善い行いに努めよ。
心して 人生を謳歌するのだ」
このテキストも、本来ならストア派哲学かアリストテレスかを想起させて、現代の文学に置いたらディストピア文脈にも捉えられかねないものが、するっと出てきてます。
相応の覚悟がないと、また、その背景を描き尽くせる筆がないとなかなか書けるテキストじゃないと思うんです。
神の支配が解体されるなかで出てきたこの「愛」への回帰は、柄谷行人の「国家・資本・宗教による強迫から完全に脱却した、純化された生の回復」とも取ることができます。
このように、ドラクエ10 VERSION 7の物語は幾重にも素晴らしく、そして、深い、というのがわたしの感想ですが、いかがでしたでしょうか?
そして最後になりましたが、恒例の好きなキャラ、好きな場面について触れようと思います。
好きなキャラ
女神ゼネシア様
なにを差し置いてもゼネシア様でしょう。
精神的な不安定さと、幼さ、虚勢と人懐こさとが混在した厚みのあるキャラクターです。
何よりもCV川村万梨阿なところがいい。
川村万梨阿が永野護に娶られたと知った時のショックと言ったらありませんでした。
知らない誰かと結婚したのであれば、「まあ、結婚するよね」で済んだものを、なまじキャラクターや漫画を知っているおかげで、あたかもチャム・ファウがヘビーメタルのファティマとして囚われたような不可解さを感じました。
ドラクエのカットシーンは、初期では「セリフ=ヴォイス」という感じで1対1で録られていましたが、VERSION 7ではテキスト外の発声が増えて、ゼネシア様もテキスト外で「うふっ」とか「あら」とか言ってるんですが、永野に奪われて40年、まさか今になってこんなご褒美にありつけるとは思いませんでした。
あとこのゲーム、キャラが着地したとき、走り出すときなど、逐一息遣いが録ってあるんですが、どうやってID管理しているのか、だれのどんな指示で音が録られているのかずっと気になってまして、ちょっと見学させて欲しいと思っています。わたしが関わったゲームでは、収録立ち会いしたスタッフと、スクリプトに割り付けるスタッフが別で、「何番がどれだっけ?」みたいにかなり混乱していましたね。
ラキ
主役級ばかりやないかーいと言われそうですが、ラキ、めちゃくちゃいいですね。
釘宮理恵のこの抑え気味のヴォイスってのはあんまり知らなかったんですが、声優ってすごいです。
タイムリープの際に犬かきしてるとことか、ガナン帝国に乗り込んだときの仕草がほぼ犬なところとかから察するに、主神となったラキはワンコの国を作るに違いないと確信してます。たぶん、犬と人間の区別があんまりついていません。
グランゼニス神(孫ゼニス)
またまた主役級からの選択ですが、妙にカッコいい台詞回しにすき込まれた「チョベリバ」「あげポヨ」「じょうだんはよしこちゃん」の新旧取り混ぜた死語の数々がベリーナイス。グーよ、グー。
表現はほとんど物理的な人間として描かれ、神の威厳みたいなものは薄いんですが、ガナン帝国でゼネシアと対峙した時に見せた一歩引いた視点は「神」を感じさせてくれました。
好きな場面
キューロピア編のラスト、海を見に行く場面
ラキがキューロピアから帰ってきて気落ちしたポルテを「海を見に行こう」と誘う場面。ほんの短い場面でセリフも多くないんですが、野生のワンコだったラキがずいぶんひとに懐いて、自らひとを気遣うようになったところがステキです。
ゲームのシナリオって、謎解きに関わらないエピソードってついつい仕込み忘れてしまうものなんですが、こういう場面をさりげなく挟み込んでるところが憎いですね。
雨の島の木との会話
セリフのひとつひとつがすべて詩的で、情感をかき立てられます。
「雨の島」はたぶん「天の島」から来た着想だと思うんですが、ネーミングが良いですね。ドラクエ10の世界には「謎の○○」とか「不思議な○○」とか、ぶっちゃけ雑なものが多いんですが、その雑さを継承しつつ、唯一無二の存在感を放ってますし。
ラストのあたりの秘密会議室
主人公が創失した世界で、アンルシアと3人の魔王が語り合う場面。
ドラクエ10って、最初の頃は「掃除を終えた水車周りを見回る」とか「領界の円盤の遺跡に恐る恐る近づく(しかもモブ3人の動画ですよ?)」とかが無駄にキャプチャーされてたんですが、お金がなくなってきたのか、バージョンが進むと手付けのモーションが増えます。
手付けしてるとこって無駄に顔をカクカクさせて喋るんですごく違和感があるんですが、たぶんこの秘密会議場の場面はキャプチャーしてあります。
細かくチェックしたわけではありませんが、キャプチャーと手付けの合わせ技のようにも見えまして、その場合キャプチャーの発注管理ってどうするのだろうと……って、そういう話ではありませんね。
この場面のまえ、たしかラダガートとの会話だったと思うんですが、そのあたりからラストまでは泣きっぱなしでした。
以前から書いている通り、「キャラが死んで泣かせる」ってのは、ズートピアよりも古い物語のセオリーなんです。わたしはそれよりもこの場面のように「生きると決意した際に与える感動」に動かされます。
最後に
と、そんな感じのVERSION 7でしたが、ラストのゼネシアの態度には賛否があるみたいです。
わたしも前半でものすごく「プロット都合」を感じてしまって、「ゼネシアの嫉妬」を見逃してしまったら、否定したかもしれません。
されどわたしにとってVERSION 7の後半は、ゼネシアの嫉妬心が融解していく話、父の支配から逃れる話、に思えましたし、それでいながら最後は「前向きにルティアナを見返した」とも取れる粋な終幕のようにも思えました。
トータルで考えて、大好きな物語ですし、ドラゴンクエストXというゲームを更に好きにさせたバージョンでした。
というところで、今日現在――2026年8月末の時点でリリースされている最新版は8.0です。
感想の続き、最終章を書くのは1年後とかになると思いますが、はたしてこの先、どんな展開を見せてくれるか楽しみにしています。