魔法の夏休みと僕

さよならおやすみ
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公開:2025/9/7

1983年のことだと思う。当時はEpic/SONYレコードに在籍、そこでファミコン用にRPGの企画を書いた。クラスの生徒たちが、女性担任先生を探して異世界へと冒険に出るお話だった。

当時、自分にシナリオが書けるわけがないと思っていたので、ライターは心の師であるK山に紹介していただき、結果的に名義K山、執筆A堀という、今にして思えば最強の布陣での執筆を取り付けていた。

その他、キャラデザ、音楽もK山の紹介で、名前を出すわけにはいかないものの二つ返事でとんとん拍子で固まっていったものだったが、当時RPGに使えるような大容量ROMは供給不足で、「2年は待たされる」という話を聞かされ、プロジェクトは始動することもなく消滅していった。

プロジェクトを畳むとき直属の上司は、「K山が書くならともかく、弟子が代筆するんじゃダメだ」と言い繕ったが、K山はシナリオ教室で育てた弟子のシナリオを全部自分がチェックする条件でデビューさせた人物だ。他方A堀も、後の活躍を見れば、どれほどゲームシナリオに適性があるかわかる。が、上司には先見の明というものがなかった。だがこれも、無能だったというよりは、「ROMを用意できません」と言われて腰が引けていたのだろう。

このあたりにはもう少し登場人物があるが、『絲失せ行こう弐のひとを探しに』にも同じことを書いた。

ちょうどSONYが、京都の老舗から距離を取り始めたころだった。ROMの供給や流通の問題など、多くのことを話し合ったのを覚えている。

その後、スクウェアに移籍すると、品薄なはずのROMがそこにあった。Epic/SONYレコードから出る無名なゲームに供給するより、大手の売上が見込めるゲームに供給したほうが良いというのは、方針としては正しい。だけどそうは言っても、だ。正直、任天堂を恨んだ。天下の任天堂を批判するのはタブー中のタブーではあるが、20代の血気盛んな若造が「ROMが用意できない」という理由でプロジェクトを潰されたのだから恨むでしょう、それは。「恨んでません」などと繕うほうが白々しい。

それから10年。スクウェアに在籍した最後の年、1999年、某アクションRPGを作ったあと、いつもの「脱稿鬱」状態で、ココロのトリートメントもできていないまま、スクウェアを退社した。理由は「もう戦うゲームを作りたくない」だった。

そうやって独立して作ったのが、マジカルバケーションなのだから、ああいうストーリーになるのは必然だったのだろう。作中で「口を開けば、倒すだの、戦うだの…」のようなセリフがあるが、あの頃の偽らざる本音だ。

スクウェアは内部での競争の激しい会社だった。それで面白いゲームが生まれていたのは事実だが、その影ではトイレの個室ですすり泣いている奴もいたし、ひどい後輩いじめをやらかしてる奴もいたし、辞めてった奴、風になった奴もいた。もちろん、上は知らないだろう。上はただ競争して切磋琢磨すれば面白いものができると信じ、下は自分なりの手段で競争し、そして負けたものは消えていった。後輩いじめをやってた奴を問い詰めたことがあるけど、そいつは「わかってるけどやめられない」と言って泣き出した。悪い奴はきっとどこにもいない。ドグラマグラだった。

元気なときだったら、それをちゃんと上司に相談していたりしたのだろうけど、僕だって競争の当事者だった。最後に手掛けた某アクションRPGで評価されはしたが、「名前が出るかどうかは死活問題なんです」と後輩から訴えられたプロジェクトで、僕は名前を出してしまった。

競争したくない。争いたくない。――というのは子供の頃からの傾向で、それが当時は自分の子が保育園に通うことになった頃で、いくぶん拍車がかかっていたかもしれない。

そして、2000年。あれほどに恨んだ任天堂資本で独立。妙な話だ。10年前はソニー系にいたのに、まったく一貫性がない。とは言え、状況は変わっていた。Epic/SONYにいた頃に知り合った気の良いアニキぶんは鬼へと豹変し、知り合いのスタジオはソニー系と任天堂系に分裂し、そして元上司はどこかに飛ばされていた。

僕たちが任天堂の支援を受けて独立できた影には、「離反したスクウェアへの意趣返し」みたいな意図も感じられた。だがこれも、皮肉な話だ。「競争したくない」と言ってスクウェアを辞めたのに、企業同士のもっと大きな競争に自ら巻き込まれる形になったのだから。

実際に任天堂傘下に入っても、正直、あまり馴染めてはいなかった。本当はもっと腹を割って、「僕達はこれが得意です、足りないのはここです」と話し合って、ガッチリとタッグを組んでクオリティコントロールできればよかったのだが、そこには外様ゆえの壁があった。弱みを見せてはいけないと、最初の作品であるマジカルバケーションは随分無理をして作った。

ところで。

任天堂さんはよく「シナリオはどうでもいい」なんてことを言って凹ませてくるのだが、でも実際には、スタッフはちゃんとシナリオを理解していた。表面的にではなくそのテーマやポリシーまで理解し、共感してくれたので、口で言うほどの唐変木ではないと感じた。良き出会いもたくさんあった。

否、すべてが良き出会いなのだ。その意味に気がつくかどうかだけの問題だ。

K山のシナリオ教室には通わなかったが、なにか書くときは必ずあの人の顔が過った。K山ばかりではなく、その仲間たちもよく僕のココロをノックした。K山の盟友、S田先生の書く物語には必ず、主人公を遠くで思う仲間が描かれていた。本人とは会ったことも話したこともないが、その作風はずっと胸のなかに大切にしている。

人生そんなに楽じゃない、辛いことばかりだけど、気持ちを分かち合った仲間が、いまもこの世界のどこかにいる――と、いうような思いを全部込めた。クラスメイトのセリフは小学校中学校の同級生のことを思い出しながら、一部は泣きながら書いた。

長い冒険だった。12歳から15歳の頃を振り返りながら最初の企画を書いて、K山に見せたのは23歳のときだ。作品として世に出たのが35歳。そしていま、59歳、バーチャルコンソールでも遊べるようになった。代表作はいくつかあるが、マジカルバケーションほど複雑に僕の人生と交差したものはない。

@sonovels
さよならおやすみノベルズという個人小説レーベルで地味に書いています。サイトで読めばタダ。Kindleで100円。 sayonaraoyasumi.github.io/storage