太宰治の人間失格をとある事情で読み返した。
以前読んだときは、そもそも太宰嫌いであったためか、太宰治の渾身の自己弁護としか捉えられなかった。もちろん、その感想が変わったわけではない。所詮、心中して相手だけ死なせて生き延びてるクズだ。それをどんなに劇的で精緻な筆で書こうが、それはただ「文章が書ける」というだけの話で、クズはクズだ。文章がうまければクズが真人間になるわけでもないし、免罪されるわけでもない。しかし、いまの私は自分でも文章を書くようになり、太宰治は割り引いて、より文章そのものを読むようになった。
人間失格のなかで、主人公は知人に「罪の反対はなにか」と問う。男の反対が女、黒の反対が白であるように、罪にも対義語があるはずだが、見当たらない、と。
ただしこの、男の反対は女、黒の反対は白、というのも怪しいもので、前者はたとえば「車の反対は船」「馬の反対は鹿」というくらいには意味がわからない。後者は青の反対が赤でないように、色には反対という関係がない。ある意味、補色は反対であるかもしれないが、それも定義の問題で、人間の可視光の周波数範囲が違えば変わる。そもそも「赤の反対は緑です」と言われて、誰が納得するかという話で、あるいは赤の波形を反転させた波形、すなわち同じ赤が赤の反対であるとも言える。そう考えるなら男の反対は反物質の男だし、女の反対は反物質の女で、それらは宇宙には存在しない。このように、対義語というのは意図的に作られたもので、科学的な、あるいは論理的な根拠は薄い。そしてこの、「対義語」という社会によってもたらされている概念の不確実性が、人間失格のテーゼであるようにも思うのだが、太宰はその「対義語」を問う。
そこで、社会通念に沿って、あるいは社会通念を脱構築するつもりで、「罪」の反対を探ってみた。
罪というのは、ひとがひとりだけで犯せるものではなく、ある行為が罪であるか否かは社会が決める。個人が何をしようが、その行為が罪か罪でないかは、本人に決めることができず、社会が罪だと言えば、それが罪なのだ。そして多くの場合、ひとはこの罪を内面化して、自分のなかにア・プリオリに罪があるように錯覚する。しかし飽くまでも「罪」とは、社会が決定するものだ。罪とは、行為ではなく、行為の評価であり、それによって行為者とその行為に与えられるラベルである。
じゃあ、その罪の反対はなにかと考えると、他者にその判断を委ねず、自分自身で自分の行為を評価することであろう。ただし、自分自身でとは言っても、ひとは見たものを内面化して己を周囲に同化させる存在であるから、「自分」というものも疑うべき存在ではあるが、一旦捨象する。すなわち、罪の反対は「自分で自分に下した評価」だ。単純に「自己評価」とも言い換えられるが、「自由」という概念にも近い。すなわち、「罪」の反対は「自由」だ。
ならば、「自由」の反対は「罪」かと問われると難しい。
一般的には「自由」の反対は「束縛」だと思われているが、これは少し違うと思う。自由とは、己のやるべきことを己で決めることで、たとえ束縛されていようとも、その束縛を逃れようともがいているならば、それは自由だ。束縛されて、他者に自己の決定を委ねたときに、自由は失われたと言える。これを一般化して言い換えると、「自由」の反対は「依存」であろう。
「罪」の反対は「自由」、「自由」の反対は「依存」、となると、「罪」とは「依存」である、が成り立ちそうな気がするが、やや乖離がある。ただ、「罪とは依存である」は、なかなか使えそうなフレーズではあるので、次回作あたりでちゃっかりどこかに忍び込ませるかもしれない。