『メルロ=ポンティと「生き方としての現象学」』(佐野泰之)を読む。この論文によれば、メルロ=ポンティは「現象学的還元」により、人々の間で共有される意義が存在する前に立ち帰ろうとしたが、この際、彼は前提を棄却した世界を表現することを重視したという。そして『「表現というものは、表現する者、表現される真理、表現する者がその前で表現してみせるところの他者たちを想定している。表現と哲学の要請とは、これら三つの条件が同時に満たされうることである」』とのこと。
論文中では「表現」の一例として、具体的なもの(ベルクソンが晩年、反ユダヤ人思想の加速を懸念して表立ってカトリックへの改宗をしなかった)が挙げられていたのだけれど、、うーん、なんかよくわからない。表現、というのはパフォーマンスのことなんだろうか。メルロ=ポンティの言う「表現」がどういうものなのか、わたしにはいまいちぴんとこない。