国領佳樹「メルロ=ポンティの身体意識論」を読む。身体の認知と、それ以外のものの認知の間に差はあるか? 身体意識には認知的特権性があるのか?ということについて。
わたしが気になったのは、「具体的運動」と「抽象的運動」のいずれについても、『身体についての気づきが必要』ということ。あと、『「患者は身体的空間を、客観的空間としてではなく自分の習慣的行動に付着するものとして意識している」』こと。わたしは自分自身の肉体の輪郭線についての感覚が希薄で、自らの権利を侵害されているということにさえ気が付かない。そんなわたしでも、今こうしてラップトップに向かい、画面に眼差しを送り、指を動かしているということは、すなわち『身体についての気づき』が常にあるということだ。このことがすごく不思議で仕方がない。わたしはこの身体を自分ではない何かのようにさえ思うことがあるというのに! あと、自分の身体の意識と、自分というもの(自我とも言い換えられるかも)の間には関係性があるような気がしている。ASDとDCDの関係ってこれの影響があるんじゃないかとか。ぐるぐるぐる。