「土偶を読むを読む」を読んだ

soragiwa
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まず、読む前に感じたことを2つ。

1つは、反論本の出版というのは珍しいことではないのだな、ということ。

少し前、ゲーム史に関する本に対する反論本が出版されたことがあったし、本という形ではないが、プログラミングに関するブログの反論記事が上げられるなんてこともある。

こうした「何かに対する反論」にはなんとなく2つの傾向があるように思う。

1つは「明らかに誤っているもの」に対する反論。誤った事実が広まることにたいしての懸念から反論しているタイプだ。

もう1つは「ある側面では正しいものに対して別の側面からの解釈の存在を示す」反論だ。あるものに対して、異なる解釈があるため、その主張だけが広まることを避けたいがための反論である。

自分は専門家ではないため、結果としてこの本がどちらの立ち位置であるべきかの判断はできかねるが、最初の数ページをよんだところどうやら前者の立場にたった内容であるようだ(前者の主張であっても事実としては後者であるべき、ということも多いが、今回読む際はそこは置いておく)

長くなったが、読む前に感じたことの2つめは、値段が驚くほど安いこと。

400ページを越えるにも関わらず2000円程度で読めてしまう。プログラミングのようなIT関連の技術書でこのボリュームであれば間違いなく3000後半~4000円前半はする。価値ある本をリーズナブルな値段で読めることには感謝しかない。

内容に関係のないことをだらだら書いたところで、本書を読んで思ったことを、これまただらだらと書いていこうと思う。

実は先に「土偶を読む」を読むべきかどうか迷った。儒烏風亭らでんさん(以下儒烏風亭さんと記載)はたしか「読まなくても大丈夫です」と言っていたが本当だろうかと。

結局、仕事の都合などで読む時間がとれず読まなかったのだが、本書の「検証1」を5ページほど読んで確信した。「読まなくて大丈夫だ」と(儒烏風亭さんはそういう意味で言ったわけではないだろうけど)

X(旧Twitter)でよく言われることがある。「事実と意見を分けろ」である。

「カックウとクリは似ている」はそれ単体では「意見」である。それを事実とするには「土偶を読むを読む」で語られているような検証がいるのだが、どうにも「土偶を読む」にはそれが不足している印象だ。

「土偶を読む」の著者は書で語っている土偶の実物を見ているのだろうかと心配になってくる(そしてその心配がおそらく事実であろうことが確信に変わっていくのが悲しい)

まぁ、そこは心配しても仕方ないので、このあたりから現時点で正しく検証された土偶に関する知識と「土偶を読む」への激しいツッコミを楽しむことにした。現時点で正しく検証された、としているのはもちろん今後の検証で事実が覆される可能性があるからである(その結果、クリだったとなるのもそれはそれで面白いかもしれない)

数年前、「土偶を読む」が凄い勢いで話題になったそうだ(自分は無知ゆえそのことを知らなかった)が、今回「土偶を読むを読む」もこのような形で話題になったのは著者として(または考古学として)いいことだったのだろう。

この本は「土偶を読む」の反論本であり、読み進めていくと一体どこか正しい主張はあったのだろうかと思えるほど数多くの指摘があり、それはもう楽しませていただいた。笑いを堪えるのが大変なところも多かった。そのあたりの感想は他に語っている方も多いだろうと思うので、それ以外のところを語って差別化を図りたい。それは2つの書籍で主張が共通している点についてである。

土偶は何かを抽象化し、それを形として表したものである、という点だ。

これは当然といえば当然のことなのだが、儒烏風亭さんが挙げた中でこの本を読もうと思ったのはこうした点が語られているであろうことを期待したからだ。

抽象化、モデル化というのは美術に限った話ではなく、さまざまな分野で重要な要素となっている。

自分が仕事で携わっているシステム開発においても例外ではない。

システム開発では、システム化する対象となる業務のモデル化を行う。その業務はどのようなモノで構成され、どのような流れで処理されていくのかを図に表し、プログラミング言語によって表現する。業務において重要な要素はプログラムのソースコードでも重要性が際立つように、業務のルールが読み手にも伝わるように表現される。

抽象化とは、相手に何かをより伝えやすくするための手段なのだ。

土偶は何を抽象化したものなのか、何を伝えようとしているのかを「土偶を読むを読む」の著者は必死に読み取ろうとしていることがヒシヒシと伝わってきた。縄文時代はまだ道具も十分に発達しておらず、当時の人たちが表現したかったことが表現しきれなかったかもしれない。それでも僅かな手がかりからそれを読み取ろうとする真摯な姿勢には感動すら覚えた。

「デザインの究極的な目標は形だ」

建築家クリストファー・アレグザンダーの言葉である。デザインには何らかの目的があってそうしているのであり、土偶の特徴的な形にも目的があるのだ(なぜ3流システム開発者が建築家の名前を知っているのかというと、クリストファー・アレグザンダーがこちらの界隈にも大きな影響を与えているからなのだが、流石に脱線が過ぎるので語るのはやめておく)

正面から見た顔がクリに見える、程度のことで終わらせず、あらゆる角度から観察し、腕や姿勢、至る所まで見逃さないよう分析する。ただただ素晴らしい。尊敬の一言である。

きっと著者らは件の本など目もくれず、研究に励みたかったかもしれない。無視することもできただろう。しかし、異常なほどに注目を浴びた件の本を見過ごすことは到底できなかったのだろうと容易に推測できる。自分達が人生をかけて研究してきたものをただの思いつきのような主張で否定されるのには耐え難いものがあるだろう。

表紙の「そんなわけあるかい!」はそんな著者らの叫びあるいは嘆きのように思えた。

もっと一つ一つの検証の内容を振り返りたいところだが、長くなってしまうので(もう十分長いのでは?)一旦ここまでにしようと思う。もう一度、二度読み返してもっと語りたいことが出てきたら別の記事で書くこととしたい。

このような素晴らしい本を紹介してくださった儒烏風亭らでんさん、素晴らしい本を書いてくださった望月昭秀さん、小久保拓也さん、佐々木由香さん、山科哲さん、山田康弘さん、金子昭彦さん、菅豊さん、白鳥兄弟さん、松井実さん、吉田泰幸さん、ありがとうございました

最後に一言

「土偶を読む」は読まない

@soragiwa
仕事に疲れて楽しみを失った三流社会人。クラゲになりたい。 github: github.com/Yos-K Zenn: zenn.dev/soragiwa X(表垢): @madogiwa_429 misskey: misskey.io/@soragiwa