人生の中で受験期は自分の中で一番覚悟を決めていた時期で、犠牲を払った時期でもだった。これまでハマっていたことをきっぱりやめ、起きている時間はひたすら勉強し、誰よりも早く自習室へ行き、誰よりも遅く帰る日々だった。それが邪魔だったのか、あらゆる感情を殺し、思考を勉強だけに一心に注いだ機械と化していた。
目指した結果だけを見れば、あの犠牲は無駄だった。もう道は絶たれしまい、別の小道を進むこととなる。精神的に強烈な副作用を残して。
振り返ればそのおかげで今こうしてアメリカにいるわけだが、あのときの決意と尋常じゃない努力はもう怖くで出来ない(たぶん)。激務の日々もあれ、それはあのときのような、何かを仕留めにいくに似た、明確な冷たい激情を帯びたものではない。
今年読んでまんまとハマった漫画にこんなセリフがあった。
俺にとっては犠牲なんて神聖なものじゃ全然ない。劣等感でなんにも見えていないやつが一番最初に手を付ける簡単な自傷行為だ。価値を測れない馬鹿な人間ほどガムシャラに払えばお釣りがくると思うんだよ。
(メダリスト9巻)
確かに払える犠牲を払って結果それが叶わなかったし、失ったものも多い。
そうすることで自分を正当化していた。努力量、犠牲量に比例して、常に相応の対価が得られるわけではない。しかし自分は勝手にそれが尊いと思ってしまい、すぐに犠牲を払うことに飛び込んでしまう。価値を測れない馬鹿な人間だ。
「犠牲を払っている」と自覚している時点で自傷行為であるのは経験的に間違いない。かつてはそうでなくては得られないものがあると信じていたが、どうも周りを見渡すと違うらしい。もちろん中には犠牲の先に今を得た人もいるだろうけど。
まずは認知の歪みを取り除こう。ストイックさに価値を置くのはやめよう。自分をいじめるのはランニング中だけでいい。