アメリ デジタルリマスター版

soto
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この映画と出会った瞬間、世界と調和が取れたように感じた

劇場貸し切り状態でまったく一人で映画を観た経験は、記憶の限りは3回。

  1. 10年前にキノシタホールのリバイバルで観たアメリ

  2. 今年の頭にシネマテークで観た指先から宇宙まで 素晴らしき短編アニメーションの世界(今池多いな…

  3. そして今日観たアメリ デジタルリマスター版

アメリ、人気無さすぎワラタ

一般層からは忘れられ、事象映画通やシネフィルにはニワカ映画として蔑まれ、不当な評価を得ている作品の一つであると思う。

でもやっぱりこの映画は大好きだ。私の生命の内で一番好きな映画はMr.ノーバディだと思っていたけど、やっぱりこのアメリかもしれない。仏映画多いな…でも私がゴダールロメールを好きになったのは、引いては映画という文化そのものが人生に必要になったのは、この作品との出会いが大きな転機なのかも

人生には失敗する権利がある

私が観た映画の中で一番好きなのがこの言葉をはじめ、アメリは詩と哲学で綴られる言葉と、ガーリーでポップなビジュアル(あの黄色い色調!)と音楽とのギャップが最高にフレンチしている映画だ。後者だけを取り上げられてただのシャレオツ映画として見なされがちなのがやっぱり勿体ないなあ

共感する映画、しない映画

アメリは容姿は可愛くてオシャレだがコミュ障でストーカー、アスペルガー症候群の傾向が強い女性として描かれている。やってることがかなりイタいのだが、単純に彼女が可愛いし、同じく陰キャでコミュ障の私はがんばれ…がんばれ……! と超感情移入しながら鑑賞しているので後半までその事実に気づかない「こいつめっちゃストーカーやん!」

元々映画とは観客に共感して楽しむように作られているものと、共感しないように作られているものがあると思う。どっちでもいいのもいっぱいあるだろうけど。共感できるかできないかはその映画の狙いによるので、普通それ自体が評価や満足度には影響しない。ノー・カントリーとかは共感できないキチガイを見て楽しむ映画だ。共感できるなら牢に入るべきだ

でも私がアメリをここまで愛してやまないのは、きっと超絶ストーカー野郎のアメリに共感しきってしまうからに違いない。そうすると共感することは加点に繋がるのか。そしてまた、パリピや恋愛強者と言った人種がこの映画を観た時、ウジウジのアメリについてはどう思っただろう? 共感できだんだろうか。更には、共感できる=自分が既に持っている価値観、共感できない=持っていない価値観だとしたら、共感できない映画を鑑賞してそれを受け入れた場合の方がより、一つの作品を楽しみ成長する機会を得たと言えるんじゃないだろうか

いなくなってしまった人たち

鑑賞後に映画.comで、比較的新しめのアメリの感想を漁っていたら、

この作中は1997年だが、2023年の今のフランスではカフェ店員やポルノグッズ店員は移民労働者に置き換えられてしまっている

みたいな感想があった。どこまで事実かどうかはさておき、移民情勢が全く考慮されていなかった25年前と今のヨーロッパでは全く異なるのは分かる。映画そのものは当時からお伽噺と言うかお花畑そのものだったのは分かる。でも現実のアメリとニノは、発達障害を抱えたやさしい人達は、25年経った今はその店に立ってもいないかもしれないのだ

彼らはどこへ行ってしまったのだろう。利便性と豊かさを追求して、クレームと内部レビューで再三改善を繰り返した民間サービスは、確かに我々の生活を見た目上は便利にした。待ち時間は少なく、使用するコストは最小限で、最大のおもてなしを。意思決定を迅速にし、開発スピードを上げて、リリース後のレビューでふりかえりと課題発見して即対応、繰り返してサービスのクオリティとデプロイスピードを高めていく

スピード、スピード、スピード

効率よく、効率よく、効率よく

最低限の費用で最大限の品質と幸福を。偉大なるビッグ・ブラザー! 効率を追い求めた結果、社会のスピードと求められたクオリティについてこれない人材は必要ない。振り落とされていく。排除されたアメリとニノ。映画アメリの世界は、僅か25年で完全にお伽噺になってしまった。我々はこの生活を本当に豊かと呼ぶのだろうか? 人類は本当に歴史を重ねるごとに進化しているのだろうか?

それでも中流以上の人間は、私は、今のこの快適さに最適化された生活を捨てられそうにない。反吐が出そうだ

@soto
音楽/映画/読書/美術が好き Ars longa, vita brevis