4月に入った瞬間に精神面の急降下がきてびっくりした。思い出すことが多くて掻き乱されるという不安がもたらすものなのか、年明けから積み重ねた疲労に押されて許容量から溢れたのか。点検はできるようになったけど分からない。先月ういちゃんと会って、さびしく感じることについて話した。さびしさは誰にでも一定あって、人といる状況からそうじゃなくなったり、人といるけどその人が自分を知らないという状況で際立つんじゃないかなと思う、と話した。期待と不安のバランスの偏り。数年ぶりに人の恋バナを浴びるように聞いた時も、恋バナって90%くらいが不安という要素で構成されてるなと思った。その不安要素を作ってるのは社会なのではないか。今はそう考えることができるけど、できなくて全てが不安に傾いて起き上がれなかった時期の日記を読み返す。ぐらんぐらんに揺れることがあった、またくるかもしれないけど大丈夫になった、という記録をいつかの自分のために付け足した。
渋谷の奥の方を歩くと、いたる道で会社勤めの記憶が蘇っていまだにザワザワするのだけど、なんというか、人生のうちで心的外傷が無くなることはそうそう無いが、思い出しても自分で自分にダメージを与える/受けるまでの深さに立ち入らなくなっただけ、ただ傷はある、あるけど、とどまることができるようになった、という感じがする。心身の状態でとどまれるかどうかが変わる。もう大丈夫なものと、まだだめなものが混在している。
久しぶりに家族に交際について話を振られて、(あらゆることが家族単位で設計されている地方の町で)ひとりで暮らして働いて納税して奨学金返して持病治療してるのすごいのでは、と返したら納得はしていた。ひとりで生きるのは難しいのかという問いと、ひとりで生きるのは可哀想なのかという問いには果てしなく大きな差がある。
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ほとんどが普通という名の湖に浮かんでいて浮かぶために最適な船を探しているけど自分がどうなのか分からないので水面に小石を投げてみるが波紋も広がることなく沈むので山にいる、というような気持ち
2022年2月11日のツイート