結婚してはじめてわかることなら両の手で数えてまったく足りないほどにあって、そのあたりまえの毎日の新鮮さときたら、ひとつひとつを永久保存版の日記にでも書きつけておきたいほどだった。そもそも、リーマス・ルーピンにとっての「日常」は世間一般でいうそれとかなり深い断絶があるのは、仕方のないこととしても。
たとえば自分以外の誰かのために作る食事のおいしさであるとか、誰かといる空間の温度の違いだとか、書き物に集中するには無音より何かしらの生活音がある方がより良いという気づきであるとか。
かつて「結婚はいいものだよ」「きみらも早く結婚すべきだ」「なんで結婚しないでいられるんだ?」とそれはもうしきりに、何かに取り憑かれたかのようにうっとうしく繰り返していた友人でさえ、その詳細は教えてくれなかった。リーマスにはその理由が今になってわかる。どんなに上手に言葉を尽くしてつまびらかに説明したとても、そこにはじっさいの手触りが欠落しているからだ。少し距離を隔ててソファでうたた寝をしている妻の、息づかいや、髪の匂いや、無意識のひとりごとが決定的に欠けているからだ。
眠りにつく時間がお互いに違うのは少し考えれば当然のことだった。朝起きてその日の予定も互いに違えば、体力も違うし疲労も違う。夫婦になったからといって、必要睡眠時間がぴたりと揃うと思うほうがおかしい。だからリーマスは、自身に眠りの気配がやってくるまでベッドには入らなかった。かれの宿命として――つまり狼人間の宿命として――慢性的な不眠があり、それはもはや慣れきってしまったリーマス自身よりも、隣で眠るニンファドーラにこそ影響を与えるだろうと思われたからだ。
結婚してしばらくは、ニンファドーラもリーマスの言い分を飲んで先にベッドルームへ入っていた。「わたしなら大丈夫」「ぜったいにすぐに眠れる」「あなたが隣で身じろぎしたってかまわず寝るから」と訴えたが、リーマスはほほえみながらも頑なにノーと言うばかりだった。それでニンファドーラも諦めてリーマスの気持ちを尊重したのだが、それも数週間後には期限切れとなったらしかった。
「寝室が寒いの」
いつものようにおやすみと挨拶をしたあとで、ニンファドーラは寝室から戻ってきてこう言った。リーマスの勘違いでなければ、彼女の眉はどこか怒っているような吊り上がり方だったし、声の調子は平板で何も文句は言わせないという強い意思を感じられた。
「もう少し薪を入れようか」
リーマスがソファから腰を上げかけたのを「いい」と短く制し、ニンファドーラは夫の腕をしっかと掴んで言った。
「今日こそは一緒にベッドに入ってもらうんだから」
リーマスは困り顔で立ちつくしていた。別に、眠れないままベッドの中にいることがつらいわけではなかった。それは幼いころからかれが耐え続けた空白の時間だった。やわらかな寝具の中でどこにも帰結しない考えごとをするのも、あたたかな暖炉の前で擦り切れかけた本を読むのもそうは変わらない。ただ、ニンファドーラに「あなたと一緒に眠りたくない」と思われることだけがおそろしかったのだ。
「……だけど、きみまで眠れなくなるかもしれない」
「やってみないとわからないでしょ? それに、本当にさむいの。あのベッドはひとりで眠るために用意したものじゃないのに」
ニンファドーラは胴にしがみつくようにしてリーマスを抱きしめた。体温が高い。それに、いつもよりも話し方が幼い気がする。リーマスは観念して「わかったよ」と言った。
「暖炉のしまつをしてからベッドへ行くよ。きみは先に横になっていて。きちんと肩まであたたかくして、風邪をひかないように」
ニンファドーラはリーマスの目をじっと見つめ、嘘がないかを確認してからこくりと頷いた。
眠る支度をしてからリーマスがそっと寝室のドアを開けると、ニンファドーラはすでにすやすやと寝息を立てていた。安らかな眠りを享受する妻を見たリーマスはさてどうしたものかと思案したが、結局そのままベッドに入ることに決めた。もうリビングの暖炉の火は消してしまった。それに、約束を反故にするのは、夫婦にとってけしていいとは言えないことだろう。たとえそれが、彼女がほとんど寝ぼけているときに交わした約束であったとしても。
リーマスがベッドの中で脚を伸ばすと、足首から先だけがひやりと冷たい。それ以外の部分はニンファドーラの体温が伝わったぶんあたたかく、寒いのだと言われて初めて、リーマスはとても申し訳ない気持ちになった。
顔の前に投げ出された手を、そっと握ってみる。芯はあたたかいが、外に出ていたぶん指先が冷えていた。リーマスは五本の指を両の手でくるんでやった。そうして目を閉じてみる。まだ眠気は来ていなかったが、そうしていると不思議なくらい気持ちが凪いだ。あてどない思考に頭をまわす代わりに、おだやかで規則的な寝息の数をかぞえた。
――リーマス、きみこそ早く結婚するべきなんだ。きみときたら、寂しがりやの甘え下手なんだからね、まったくさ。
あの時は新婚に水を差すのもはばかられて苦笑していたけれど、じっさいリーマスはめんどうなだけだと思ったのだった。今だって「きみが正しかったよ」とは口が裂けても言いたくはないけれど、ジェームズの言うところの結婚の良さについて、いくつかは理解できてしまった。少し距離を隔ててソファでうたた寝をしている妻の、息づかいや、髪の匂いや、無意識のひとりごと。小さな子どもみたいに高くなる体温や、つたない言葉づかいや、どこまでもおだやかな寝息の音。
リーマスはニンファドーラの寝息を聞きながら、うとうと眠りのなかに入っていった。眠りに落ちるのがこんなにも心地よいと思うのはたぶん初めてだった。ときどき、ニンファドーラがむにゃむにゃとよくわからない寝言を言う。呼吸の合間にふが、と鼻が鳴る。リーマスはそのたびにはっとして、そして笑った。