こんな夢を見た。
ある日目覚めると、太陽がのぼるまえだった。わずかに開いたカーテンの隙間から外を見た。空は薄暗く、世界はしんと静まり返っている。早起きの鳥でさえまだ眠りの中にいる。
白い光が今にも地平線の向こうから差しこんで来そうだ。朝がまもなくやってくる。
僕はむくりと体を起こし、眠い目をこすり、隣に眠る人を見た。リリーは体を僕のほうへ向け、静かに寝息を立てている。彼女はまだ、深い深い眠りの底にいるようだ。
僕は彼女がたゆたう、おだやかで優しい眠りのそばにいた。何にも傷つけられない、少しの不安もない、やすらかな寝顔を見た。僕はほほえんで、外に飛び出した彼女の手をそっと寝具にしまってやる。皮膚はひやりと冷たく、その下の血液はほのかにあたたかかった。
それから枕元の眼鏡をかけ、慎重にベッドから出た。彼女の眠りを妨げることのないように、ゆっくりと注意深く。
キッチンに立ち、ケトルに水をたっぷりと入れる。湯が沸くのを待つあいだ、僕はじっくりと悩む。今日という日の始まりに飲む紅茶について。ミルクは必要か? 砂糖はどれくらい入れようか? どんな紅茶のにおいとともに、リリーの目覚めを待っていようか?
僕は茶缶の並んだ戸棚の前で腕組みをしてしばし悩んだ。それから二日前にリリーが買い足したダージリンを手に取った。夏摘みの葉なの、と言いながら、大事そうに茶棚にしまっていたのを思い返す。ふたを開けてみると、中にはぎっしりと茶葉が詰まっている。僕は身の引き締まる想いで、茶さじきっちり二杯分の葉をポットに入れた。ふわりと果実のような甘いにおいがした。
ぼこぼこと沸騰した湯をポットに注ぎ入れる。中で水流ができるように、覗きこみながらゆっくりと。そして蓋を閉め、しばし待った。ポットの中で揺らめき、じわじわと開いていく茶葉を想像して。
おいしく淹れられたに違いないという確信があった。ポットの注ぎ口からほのかにたちのぼる紅茶のにおいを吸いこむと、僕は寝室へと向かった。茶葉が開ききるまではまだもう少しあったから、そのあいだにリリーを起こそうと思ったのだ。
まだ少し目覚めの時間には早かったけれど、上手く入ったはずの夏摘みのダージリンを、リリーにいちばんに飲ませてあげたかった。それはとても良い考えに思えたし、そうやって彼女と二人で一日を始めるのは何より幸福なことのひとつなのだった。これまでに数えきれないほど繰り返してきた、すばらしい一日の始まり。
寝室のドアを開けると、先ほどと同じ姿勢で眠るリリーが見えた。僕はベッドに腰かけ、彼女の名を呼びながら頬にそっと手のひらを当てた。
頬は冷たかった。そして皮膚の下の血液も。僕は彼女に何が起こったのかをすぐに悟った。彼女の体は、そこに温度を留めることをやめたのだ。
僕は頬に置いた手を耳のほうへ滑らせた。リリーのやわらかく薄い耳たぶを、ずいぶんと動きの鈍くなった指先で確かめながら。そしてもう一度、静かに彼女の名を呼んだ。とても意味のないことだとわかっていたけれど、どんなときでも彼女の名を慈しんでいたかった。あるいは、そうすることで自分自身を抱きしめていたかった。
それから僕はベッドにもぐりこみ、リリーの最後のぬくもりを味わった。寝具に移った彼女の体温はそっと僕を抱きしめ、こわばった涙腺を優しくときほぐしてくれた。僕は枕にひとつふたつ涙を落とし、それから少しだけ眠った。
*
「もうすぐだと思うの」とリリーが言ったのはほんの十日ほどまえのことだ。僕は「本当に?」とたずねた。きっとひどく寂しそうな顔をしていたのだろう、リリーは「大丈夫?」と言って笑った。
それから僕たちは、急いでほうぼうに手紙を送った。子どもたち夫婦や、孫たちや、古い友人たち、新しく友情を結んだ若者たちにも。
そしてにぎやかな食事会を開いた。リリーと僕だけではとても手が足りないことをみながよくよくわかっていて、めいめいに食べ物や飲み物を持ち込んでの楽しい会になった。
おいしい食事を楽しみ、デザートを食べ、お茶を淹れ終わったあたりで、リリーは僕に目配せをした。僕は頷き、みんなに向かって「聞いてほしいことがあるんだ」と言った。
「僕とリリーは近いうちに――それがいつかははっきりとわからないけれど――死ぬと思う」
家じゅうがしんと静まり返っていた。テーブルや、椅子や、片手鍋や、床のすり減ったオーク材でさえ、何も言わずに黙っていた。
古い友人たちは、何もかもわかっているというふうに、うんと頷いた。子どもたちは来たるべきものにきちんと向き合おうと決意していた。ぎゅっと両腕を抱きしめ、震える心を守るみたいにして。孫たちは悲しみに顔をゆがませ、涙があふれるのを必死にこらえていた。ひ孫たちはしばらくぽかんとして理解が追いつかないようすだった。けれどそのうち瞳から涙をぽろぽろと落とし、声をあげて泣き始めた。
いちばん小さなひ孫が、椅子に座るリリーの元にやってきて、彼女にとりすがって泣いていた。リリーは若いころの自分によく似た赤い髪(癖毛なのはきっと僕の血だ)を、ゆっくりと撫でてやった。
「これはね、ただの順番なの。わたしたちはそうすることをちっとも怖がっていないし、悲しんでもいない。これは永遠のお別れなんかじゃないのよ。決してね。きっとまた会えるから」
リリーは優しく言い聞かせるみたいにして言った。まだ幼いひ孫はそれでもしくしくと泣き続けていた。それでリリーは少し困った顔でほほえみ、子どもの頭を抱えこむみたいにしてやわらかく抱きしめた。
「お別れはさみしいね」
リリーがぽつりとつぶやいたひとことのあと、誰かが鼻をすする音がした。僕は思わず、「僕だってさみしいよ」と言った。
「もう、困ったひと!」
いくつか笑い声が漏れた。僕はリリーの手を取り、「きみといて最高に幸せだった」と言った。彼女ははにかみながら「わたしも」と応えた。
*
目が覚めると、もう白い朝がやってきていた。リリーはやはり静かに眠り続けていて、僕は淹れたままになっている紅茶をふと思い出した。ああしまった、とひとりごちて寝室を出る。すっかり冷えてしまった紅茶をあたためなおし、ひと口飲んでみる。濃くて渋かった。僕はがっかりして、ミルクをたっぷり入れてなんとか飲めるものに作り直した。
それからパンを焼いた。焼けたパンにバターをざくざくと塗り、熱いうちに食べた。リリーお手製のいちごジャムも乗せた。
朝食を食べ終わると、顔を洗って歯を磨いた。そのあとヘアブラシを持って寝室へ戻り、リリーの長い髪を丁寧に梳かしてやった。燃えるような赤はずいぶん前に色褪せて白くなってしまったけれど、彼女の髪はあいかわらず、いつだって美しかった。
そうして僕は彼女の旅立ちの身支度を手伝った。髪を梳かし、服をととのえ、胸のうえで両手を組んでやった。それから最後にまぶたの上にくちづけ、頬を撫でた。
僕は靴を履いて外へ出た。空は気持ちよく晴れて、太陽は明るく輝いている。ときおり吹く風に乗って、鳥たちが木々の間を飛び回っていた。昨日は蕾だった花がほころび、花びらが少しずつ顔を出している。
「ポッターさん、こんにちは」
なじみの花屋に勤める青年が、店先で手を振っていた。つい先日の食事会にも招待した、気の良いマグルの青年だ。
「やあ、いい天気だね。先日買って帰った花はまだ元気にしているよ」
「ポッターさんの家にもらわれた花は幸運ですよ。あんなにきれいに咲かせてもらえる家はめったにないんだから」
リリーが世話をするからだった。彼女の指が触れる木々や草花は、ただそれだけでふしぎと輝きだす。花を咲かせる魔法がいちばん好きだとよく言っていた。
「草花を育てるのが上手な人のことを、緑の手って言うんです。同じやり方で世話をしても、そういう人に手がけられた花は他とまるで違う。みずみずしくて鮮やかでね。そうかあれは魔法なのかもしれないって、ポッターさんとお知り合いになってから僕、気がついたんですよ」
僕は笑った。花のこととなるととつぜんおしゃべりになるこの青年のことが、僕もリリーもとても好きだったのだ。
「なるほど、リリーはたしかにそうだったんだろうね。僕にはとても真似できなかった……努力や経験でどうにかなるたぐいのものとは違った。あれは彼女だけに与えられた特別な才だ。美しい魔法だね」
「ええ、本当に。……そういえば今日は奥さまはご一緒じゃないんですね」
僕は少しだけほほえんで、何も言わなかった。先日の食事会で話したことを彼ならわかってくれるだろうと思ったし、何より口にできなかったのだ。「リリーは死んだ」と、ただその短いひとことが言えなかったのだ。
聡い彼はすぐにハッとして気がついたようだった。下唇を噛み、何かに耐えるみたいに目を閉じた。それから少し震える息を吐き出して言った。
「お花をお選びしても?」
「ありがとう。とてもうれしいよ」
彼は白いユリの花を真ん中に据え、色とりどりの花と一緒にブーケを作った。
「奥さまの素敵な旅立ちに」
「まったくきみときたら、この国でいちばん腕利きの花屋に違いない」
僕がそう言うと、彼はうれしそうな、居心地の悪そうな、複雑な顔をして笑った。
家に帰った僕は息子に手紙を書いた。僕たちのふくろうの世話を頼みたいこと。けして若くはないけれど、仕事はきちんとこなしてくれること。ただし飼い主に似て悪戯好きなので広い心を持って可愛がること。あまり叱るとヘソを曲げて目玉をつつくので、充分注意すること。
書き終わった手紙に封をし、ふくろうに渡す。手紙を届けたらここへは戻らず、そのままそこで暮らすようにと言い含めた。悪戯は少し減らすべきだと一応言ってみた。おそらくは無駄な苦言になるだろうけれど。
そういえばまだ読み終わっていない本があったことを思い出した。僕は棚から本を引き出し、安楽椅子に座って読書を始めた。最後までは読めないかもしれない。だめならだめで仕方ない。やれるだけやってみようと思う。
ページをめくる指が目に入り、ああ長い時が経ったのだなとあらためて思う。僕の手はしわだらけで、皮膚は薄くかさつき、手の甲にはそばかすがてんてんと散っていた。若いころあらゆる理由で作った傷痕も、今はもうほとんど見えなくなった。長い、長い時間だ。
僕は本に没頭した。紙の擦れる音がするたび、意識が本の中へ沈みこんでいくようだった。何時間そうしていたのか、やがて目が痛くなってきてまばたきが頻繁になり、脚が痺れ始めた。肩はこわばり、頭が重い。僕は呻き、少しずつ慎重に体を伸ばす。
本はあと一章を残すのみだった。しばらく悩んだけれど、結局最後まで読まずに本を閉じた。
僕は夕暮れの空を椅子から眺めていた。人生最後の夕日を眺め、赤から濃紺へ刻々と変わっていく空をぼんやりと眺めた。明日の朝、僕は目覚めないだろう。リリーのいない最後の一日を過ごし、眠りについて、そして死ぬのだろう。思えば僕がこの世に生まれ落ちて以来、彼女がいなかったことはなかったのだ。いつかまた会えたとき、リリーに教えてあげようと思った。「きみのいない世界も、変わらず美しくすばらしかった」と。
空に星がまたたき始め、僕は椅子から立ち上がった。おおいに空腹、というわけではなかったけれど、何か食べようと思った。僕はチキンを焼き、サラダを作った。それをのんびりと食べ、そのあと皿を洗い、食器棚にしまった。
シャワーを浴び、バスタブでじっくりと体をあたため、歯を磨いた。寝室へ行き、眼鏡を外してベッドに横になった。眠るリリーの横顔を見て、きれいだなと思った。
僕は自然とやってきた眠気に誘われて、ゆっくりとまぶたを閉じた。そろそろとリリーのほうへ腕を伸ばし、彼女の手に重ねて置いた。細い薬指についている指輪をそっとなぞり、ああ、と小さく息を吐いた。
彼女と一緒に百年を過ごしたんだなと、僕はそのとき気がついた。
――『百年の恋』――