新しい靴のこと

もち
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靴を一足、だめにしてしまった。だめにしてしまったというか、避けられない経年劣化というべきか。大学生のころに買った靴だったように思うので、けして高価なものではなかったはずだ。むしろここまでよくもったなという具合。くすんだ青色(カラーチャートで見たところ、“なかはなだ色”がいちばん近い)のスエード生地で、かかとに鋲打ちのリボンがついていた。後ろ姿がすこぶる美人なハイヒールだった。まだきれいなうちに写真を撮っておけばよかったなと、少しさみしい気持ち。

「一足ぶん収納場所に余裕ができたから」を言い訳に、新しい靴を買おうと思った。思えば昨年夏からシューズクロークの顔ぶれが変わっておらず、なんとなく退屈な気分でいたのだった。

https://note.com/sp_zzz/n/nc493f27970d4?sub_rt=share_pw

以前noteにこんなことを書いたりもしたなと掘り起こしてみたら、他の記事も一緒に読んでしまって時間を溶かした。おもしろかった。

さて、新しい靴を買おうと思い立って、予約もなく店へ行く。さいわい人の少ない時間帯で、スタッフの女性が一人丁寧に声をかけてくれた。「特にこれが欲しいってわけじゃないんですけど、靴を買いたくて」とそのまま言ってみたけれど、なんともやりづらいオーダーだなと今になって思った。「なるほど。こういうのどうですか? ソールの切り替えがかわいいし、たぶんお好みのデザインだと思うんですけど」うん? と思いつつやり取りをしていくうちに、この方わたしがここで靴を買ったことのある客だということのみならず、もしかして過去に買った靴のすべてを覚えていらっしゃるのでは、と確信に近い疑念が浮かぶ。「これとか、以前買ってもらったブーツと同じ工房が作ってて」え〜、そのブーツ買ったの3年前! 「このブランドの靴もお持ちですよね、ヒールの高い、黒のレザーの」それは4年前〜! もちろんこの間顧客名簿やデータはいっさい参照されていなかった。

常連客なら他にもっとたくさんいるはずで、わたしはメンテナンスだって気が向いたときにしか持ちこまないし、一年に一足買うか買わないか程度の適当な客だ。そういえば好きなアパレルショップのスタッフさんもこんな具合で、コーディネートの相談をすると「前に買ってもらったグレーのトップスとかにも合うと思います」とか、数年前の購入品を平気で覚えていたりする。もしかしてわたしよりワードローブの中身把握してるんじゃないかと思うぐらい詳細に。

天職であることの要素のうちのひとつなのかも、と思った。わたしは人の顔も名前も覚えるのが苦手だし、ましてやときどき気まぐれにやってくる客が数年前にどんな服や靴を買って行ったかなんて、覚えていられるはずがない。そんなことは試さなくても容易にわかる。

少しパンチの効いたデザインで、自分では選ばないけれど似合うもの。手持ちの靴と似た、好みのテイストのもの。何にでもあわせやすいけれど、無難になりすぎないもの。「特に欲しいものはないけれど何か欲しい」なんてふざけたオーダーに対して、提案してくれた三足があまりに素敵だったのでまたも舌を巻く。履いてみて、鏡の前であれこれと見てみて、意見を聞いたりしてみて、まったく決まらない。どれもいい。「取り置きしておきます? 一週間くらいならいけます」「ほんとですか、なら一週間後にまた来ます。それまでに決めておきます」。今のところ、まったく決まる気配がない。途方に暮れる。あみだくじで決めようかな。

取り置きをお願いして、店を出ようとしたら作業スペースからスタッフの男性が顔を出した。この方は接客よりも修理やメンテナンス作業の方が専門のよう。「もちさんってお姉さんがいらっしゃいましたよね。このあいだお店に来てもらって」「……いや、姉はいないですね……」少し気まずい空気になった。

たまにしか来ない客の情報をつぶさに覚えているなんていうのは、ふつうは持ちえない特殊能力なのだ。ソールがすり減って本体にダメージがかかる一歩手前くらいまで修理に持ってこないような、どうしょうもない客の情報など、覚えていなくても一向にかまわないのだ。下駄の木台をそこらじゅうにぶつけて欠けさせるような、クソみたいな客にも嫌な顔ひとつせずきれいに修理していただけるだけで、それ以上は望むはずもありません。靴の扱いが悪くて本当に申し訳ない。

家に帰って手持ちの服をあれこれと見ながら考える。あの靴にあわせるならどの服がいいか。この服にあうのはどの靴か。気軽に履きたいのか、とっておきの日のために履きたいのか。決めきらないまま、考えるのがめんどうになった。もう一度行って履いてみたらピンとくるものもあるだろう。知らんけど。

でもやっぱり、春に似合う靴がいいかな。もう立春も過ぎた。今年の冬はあまり冷え込まなかったけれど(今のところ、大阪は)、それでもいつだって春は待ち遠しい。

迷っている靴