リリーは目を覚ました。湖に向かって放り投げた木のみが、一度沈んだあとすうっとみなもに浮かび上がるみたいにごく自然に、軽やかに。数回またたきをし、それから肺にあった空気を吐き出す。体内から減った空気のぶんだけ体が薄くなり、背中がベッドに沈んでいく感じがする。頭のなかはまだぼんやりと夢うつつをさまよっている。けだるい体をゆっくりと左へ傾けると、目の前に黒髪の癖毛が好き勝手に跳ね回っていた。リリーのゆるやかな身じろぎに反応して、ジェームズはウウンとうめくような声をもらし、それからすぐにまた眠った。
対してリリーは、うとうとしたりパチパチとまばたきをしたりしながら、徐々に眠りから醒めて行った。やがて、もう眠りの国に後戻りできない地点を過ぎると、リリーはぱちりと目を開いてゆっくりと上体を起こした。体にかかっていたブランケットがすべり落ち、白い肩があらわになる。必要の部屋とはよく言ったもので、場所やもののみならず、環境だってそこに含まれるらしかった。この部屋のなかはいつだって快適な温度に保たれている。とは言え、やはり何もまとわぬ状態では少し肌寒かった。眠る前にはまだ炎を上げていた暖炉は、いまは熾火となって、静かに部屋を暖めている。
リリーはベッドのすぐそばに落ちていたシャツを見つけると、うんと腕を伸ばし、拾い上げ、腕を通した。そして片腕を通す途中であやまちに気がつき、ふっと笑みをこぼす。近くに落ちていたから、自分のものであることを疑いもしなかったのだ。だけど手首ちょうどでそろうはずのシャツの袖は、リリーのてのひらをすっかり覆い隠してしまった。リリーは少し考え、結局そのままもう片方の腕も通した。暗がりのなかで自分のシャツを探し直すのはおっくうだったし、そんなことでジェームズを起こしてしまえば、さらにめんどうも増える。機嫌のいいときのジェームズはどうしたってめんどうなのだ。多くの人間がきっとそう言う。
それがいやってわけじゃないけど、となんとなく心の中で呟いて、リリーはベッドに潜りなおした。ジェームズは相変わらず心地よさそうに眠り続けていて、その寝息は時をきざむみたいに正確だった。すっかり脱力した腕は顔の近くに横たわっていて、手首には腕時計がはめられたままだ。リリーは暗がりの中で目を細め、その時計が指し示す時を読もうとした。十一時四十分。あと少し。
ふと胸ポケットの中にある何かが気になって、リリーはその中身をあらためようと手を差し入れた。硬い紙のような何か。それを指でつまんで、折れないように真っ直ぐに引き出す。――写真だった。クィディッチのユニフォームに身を包み、箒を駆るジェームズ・ポッターの姿が写されている。先日の試合で撮られた写真らしかった。画面外から勢いよく飛んできたクアッフルをジェームズが受け止め、ゴールへ向かって一直線に飛んでいく。相手チームのディフェンスのまえで急停止したジェームズは、クアッフルをゴール目がけて力いっぱい投げた。誰もが苦しまぎれの暴投だと思った。ゴールまでにはまだかなりの距離があったし、パスをするべき味方もいなかったからだ。選手も観客もみな、入るはずがないクアッフルだと思った。ゴールを信じていたのはきっとあのとき、ジェームズ・ポッターただ一人だった。
「何を見ているんだい」
リリーは驚いて、思わず肩を飛び上がらせた。いつの間にやら目を覚ましたジェームズが、隣で眠い目をこすっている。寝起きすぐの声は掠れて不安定だ。大きなあくびをひとつこぼし、息を吐ききってからジェームズは目を開いた。
「この写真、どうしたの?」
「ああ……昼間もらったんだ。最新のカメラを買ったらすごくいい写真が撮れたって、にこにこ嬉しそうにしてさ。さてどうだかと思って見てみたら、試合のハイライトだった」
「自分で言う?」
リリーは呆れて言った。写真の主はおおかた見当がついた。クィディッチのエースであるジェームズ・ポッターには男女問わずファンがいて、中でも熱心なものはよく知られている。いつも首からやたら大きくて重そうなカメラを下げている、歳下のファンボーイだろう。
「でも、本当によく撮れてるだろ?」
なんだか素直にウンと言うのが悔しい気になって、リリーはくちびるを結んで小さく唸った。あのときジェームズが思いきり振りかぶって投げたクアッフルは、きれいな放物線を描いて敵チームの選手たちの頭上を越えていった。かれらがそのクアッフルを目で追うあいだに、ジェームズは矢のように空を駆けた。あっ、と言うまもなかった。ジェームズはゴール前に届いたクアッフルをキャッチすると、飛んできた勢いもそこに乗せて、至近距離からゴールポストを射抜いたのだった。結局それが決勝点になり、その直後にスニッチが捕まって試合は終わった。その日の歓声を聞けば、否応なしにわかった。ジェームズ・ポッターはあの日あのとき、ヒーロー以外の何者でもなかったのだと。
「その写真、きみが持っていて」
「でもあの子はあなたにあげるつもりだったんでしょう」
「ちゃんと受け取ったよ。それにきみなら僕よりも大切にしてくれるだろうしね」
先手を打たれたリリーは苦笑いして、「わかった」と応えた。けれどそれと同時に、自分の手元にあるべき理由ができたことで、写真の居心地もよくなったかもしれないと思う。ただ単純に恋人の写真が欲しいと素直に言えるほど、もう可愛らしい少女ではなかったので。あるいは、心のうちをさらけ出しても平気でいられるほど、まだ大人ではなかったので。
ジェームズは肘をつき上半身を起こした。そしてリリーを見て、満足そうにくちびるを引き上げた。それから腕を伸ばし、耳から落ちて顔にかかったリリーの髪をそっとかけ直してやった。やわらかな髪だ。まだ洗ったあとの石鹸のにおいがはっきりと残っている。
「もう時効だと思うから白状するけど、僕はきみの写真を持ってるよ」
ジェームズがなんでもないようにこぼした秘密に、リリーは眉根を寄せて「なんの話?」と問い質した。
「いつだったか、きみがカメラの使い方を教えてくれたろ。僕はマグル製のカメラで夕陽に染まるホグワーツ城を撮った。ふいうちで、きみも一緒に」
「でもあのときの写真はピントが合ってなくて失敗だったって言ってたじゃない」
するとジェームズは、少しも悪びれない様子で「捨てるにはあまりに惜しくて」と言ってのけた。リリーは「もう!」と怒り顔で肩のあたりを軽くはたいた。
「いい写真でさ。夜が来る数分前のあかい空とホグワーツ、それにきみはかなり間の抜けた顔をしていて――イタ! 痛い! 嘘ごめんごめん、無防備でかわいいと思ったんだ!」
リリーは今度こそ本当に眉を吊り上げ、ジェームズの耳を摘んで引っ張った。ジェームズは痛い痛いと謝りながら笑った。リリーのほうもそのうちだんだん楽しくなってきて、ジェームズにつられて笑った。ジェームズは耳を摘んだままのリリーの指を外し、手首をつかむとついばむようにキスをした。んむ、とくぐもった声のあと、ふたりぶんのくすくす笑う声が重なる。お返しとばかり、リリーもくちびるを押しつけるようにしてキスをした。ジェームズはそれを受け止めながら、喉の奥でおかしそうに笑った。
「あの写真は絶対に手放したりしないからね。たとえきみが僕をひどく痛めつけたとしてもだ。耳のひとつくらいならよろこんで差し出すさ」
「ばか」
のぞむところ、とまるでクィディッチに相対するかのようにジェームズは言った。そして、その挑戦的な表情とはうらはらに、リリーを優しく抱きしめた。柔らかく、しかしたしかな熱をこめて。リリーはそれに応えてジェームズの頬に顔を寄せた。写真なんて好きにしたらいい。そこにある切り取った一瞬など、どうせ今のジェームズはいくらでも知っているに違いない。けれどともかく、実物をあらためる権利はもちろんあるはずだ。なにしろ、そこに映っているのはジェームズへの薄く淡い想いをひそかに抱いていたのだろう、いつかの自分なのだから。
ジェームズの首すじから、うっすらとシダーウッドの匂いがした。一日の終わりの、何もかもきれいさっぱり洗い流したあとのそれはたぶん、リリーにしかわからない。自分がいま身にまとっている白いシャツから、同じ匂いがする。リリーはそのことに気がつくとふうっと肩や腕から力を抜き、息を吐いた。洗濯をつかさどるハウスエルフたちが仕事を怠けているわけではけしてないだろうに、どうしてジェームズのシャツはこんなにもかれのものなのだろう? かすかに残るシダーウッドも、くたりと柔らかくくたびれた生地も、腕を通した瞬間のほのかな温もりも。リリーが指の先に余ったシャツの袖を少し捲り上げたとき、ジェームズは「どうして僕のシャツを着ているの?」ときいた。「ちょっと肌寒くて」と答えると、ジェームズはふうん、と相槌を打ってリリーの指先を見つめた。捲り上げてもまだ余る袖から、細い指が控えめにのぞいている。
「正直グッと来る」
ジェームズが感心したように言った。リリーは熱を帯びかけたはしばみの瞳に一瞬たじろぐ。しかしすぐに気を取り直し、「わたしのシャツを貸しましょうか?」と冗談を盾にしてそれをかわした。ジェームズは「ハウスエルフに破れたシャツを縫わせるのはしのびないよ」と言って笑った。
リリーは起き上がってベッドから出ると、今度こそ自分のシャツを探した。それはジェームズのシャツが落ちていた場所のすぐそばに無言で横たわっていた。ぞんざいに放り投げられたせいで沢山しわが寄っている。リリーは少し情けないような、思い出される性急さに肌の表面がむず痒くなるような、そんな気持ちがした。
「まさか、部屋に戻る気なのかい。朝まで一緒にいられるものかと」
「最初からそう言ってたでしょ。わたしがときどき――本当の本当にときどきよ――夜こっそりと寮を抜け出すたびに、太った婦人にしこたまお小言を頂戴してるんだから。もっとも、あなたがたはとうの昔に諦められているのかもしれないけれど」
「おや、彼女のあれはお小言じゃないよ。愛情さ。言葉そのものには意味なんてないんだ」
「呆れた!」
リリーはジェームズと言葉を交わしながら、すばやく服を身につけていった。途中で拾い上げたジェームズの服を、ベッドの上に放っていく。ジェームズはしかめつらで小さく呻いた。今からこの温もりに満ちた部屋を出て、深夜の冷えた廊下を通り、寮へ戻るだなんて、とても信じられない、ばかばかしい提案だ、などとぶつぶつ長い文句を言った。そこへほとんど服を着終わったリリーが戻って来て、ジェームズの手を取った。そして腕時計の文字盤をじっと覗き、にっこりと笑った。
「お誕生日おめでとう」
ジェームズは一瞬呆気にとられたあと、腕を折り曲げて時計を見た。ちょうど日付が変わって、秒針が4の数字を過ぎようかというところだった。
「あなたに一番にお祝いを言おうと思ったの。当日はきっと色んな人があなたにそれを言いに来るでしょう。だからせめて、もちろんとてもささやかなことなのだけれど」
話すにつれてリリーの頬は赤くなり、声は徐々に小さくなっていった。ジェームズは思わずリリーを引き寄せて抱きしめた。それから彼女の肩に顔をうずめ、もどかしそうに息を吐いた。
「なんだろう、ものすごく……ものすごくうれしい。こんなの、とても言葉にできない。それじゃあきみは、今日そんなことのために規則を破ってここまで来てくれたの」
リリーはきつく抱きしめられたままで、どこか苦しげに、けれど楽しそうに笑った。
「だってジェームズ、あなた、自分がどれほど多くの人に恨まれたり嫌われたりしているかをまさか知らないわけじゃないでしょう? 今日はきっと、朝起きた瞬間からひどい一日になるから。何せ七年間の最後だもの、のべつまくなしに呪いや、いたずらグッズや、プレゼントや、お祝いや、そんなものが沢山飛んでくるに決まってる」
ジェームズはあははと声を出して笑った。おかしくて、うれしくて、涙が出る。「ああそれは本当に、ひどく素晴らしい一日になりそうだ」
だからさあ、今日のために戻ってゆっくり眠りましょう。リリーに促され、ジェームズは頷いた。それにしたって服を着るのはおっくうで、火のしまつをするリリーの姿に後ろ髪だって引かれたけれど、彼女の「おめでとう」の一言だけで、もうすっかり胸に何かの入り込む隙間はなくなってしまったのだった。
暖炉の火は消え、部屋のあかりも落ちた。窓から差しこむ月の白い光だけを頼りに、ジェームズはリリーに透明マントを被せた。
「ねえ、最後にもう一度言ってくれる? 今日はきみの夢を見て眠りたいから」
リリーはひるがえるマントの中で、ジェームズの首にするりと腕をまわした。それからうんと背伸びをしてかれを抱きしめた。襟足のやわらかな癖毛を分け入るリリーの指に、ジェームズはくすぐったそうに身をよじる。
「ああ、魔法界のカメラだって大したことないな」とジェームズはしみじみとつぶやいた。
「こんなにも素晴らしく愛しいできごとを、今この瞬間形にして残しておけないだなんて。ああなんてもったいない!」
リリーはくちびるをジェームズの耳に寄せ、「お誕生日おめでとう」とささやいた。少し考えて、「大好き」の言葉も一緒に。
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