『イントゥ・ザ・ウッズ』と『真夏の夜の夢』

spnminaco
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映画『イントゥ・ザ・ウッズ』(2014)を観たとき甦った、かつて高校ゲキ部で上演した芝居の思い出。次の地区大会で何やるかって時に、部員の1人がシェイクスピア「真夏の夜の夢」やりたいと言い出したんだ。

オイそれ登場人物何人いると思ってんの、しかも1時間じゃ収まんねえし、そもそも男子キャストがタイツ着たくないし見たくもないし!と却下されるはずが何故か決まりかけて、どうしても演るならアタシが演出脚色するわ、とタイツ回避のために引き受けてしまった自分。

かくして小田嶋䧺志先生の翻訳戯曲を削りに削り、タイツ回避と自分の趣味で舞台を50~60年代のアメリカに置き換え、色々大幅に改変した脚本を書き始めたのだった。ちなみにキャスティングでは、言い出したその部員が妖精パック役を希望したものの、他とのバランスを考え別の子がやることに。

人間の主要キャラ4人(ライサンダー&ハーミア、ディミトリアス&ヘレナ)はそれぞれ役者に好きな名前を付けてもらい、ロバート&クリスティ、ディック&ドヴァンナとなった。イメージはジェームズ・ディーン&ナタリー・ウッド、ボギー&バコールである。ベトナム徴兵から逃れる旅の途中、森へ踏み込むカップルとそれを追う2人。森に棲む妖精も当世風に若干アップデートし、音楽にはエルヴィスを使った。シェイクスピアなのにいきなり“Heartbreak Hotel”(再演版では“Trouble”)イントロが流れ、ダウンタウンのセットが現れる幕開けはお気に入り。

実を言うと、脚本は本番1週間ほど前まで完成しなかったのだが、オリジナルの結末は変えるつもりだった。確かシェイクスピアももともと別の結末を用意してたと読んだ気がしたので、じゃあそっちにしようと。妖精パックがシャッフルしたカップルを元サヤにして大団円となるはずが、そうはならぬまま“Love Me Tender”が流れて幕とした。

所詮、現代に代替不可能な愛なんかねえよ、バッドエンド!って話である。最初に「真夏の夜の夢」やりたがった子は、さぞやコレじゃない感でガッカリしたことだろう。でも、出演者スタッフが好評を得た(お客にウケた)おかげで県大会まで進めたのであった。


そんな訳で『イントゥ・ザ・ウッズ』には勝手に他人事じゃないような、途中で何これアタシが書いた話?みたいな気分になってしまったのだが……もちろん、スティーヴン・ソンドハイム先生はそんな凡人高校生とは全く次元が違って、カオスから更にその先の真理へと導き、ちゃんと円環させてしまうのだから本当に恐れ入る。

お伽噺や古典名作を一旦解体し、それをもとに新たな解釈でもう一つの物語を立ち上げる。二次創作やファンフィクションもそうかもしれないけど、そもそも「本題をどう読むか」が肝心なのだ。高校時代の自分には目先しか見えなくて、「その先」や「その奥」を読めなかった。

映画版『イントゥ・ザ・ウッズ』は巷の評判がよろしくなかったみたいだ。けれど、おそらくオリジナルのミュージカル舞台はもっと過激でナンセンス色も強かったんじゃないかと、自然とその完成形を想像して補完しながら観たせいかもしれない。私にはものすごく優れた物語だと思えたんだよ。


そして今、当時の反省を踏まえて、もう一度「真夏の夜の夢」の戯曲を書いている。

そもそも私は『アメリカン・グラフィティ』をやろうとしてたのだ。なので設定はほぼ同じまま、心残りだった部分を改めて考え直し、結末は更に変更してみた。1963年夏至の日のアメリカを舞台に、4人の若者が妖精の魔法で夢を見るーーいや、夢から覚める。そんなアイディアと、マーティン・ルーサー・キングの“I have a Dream”スピーチ、エルヴィス・プレスリーの名曲“If I Can Dream”が結び付いたのは必然だった。

あの頃のゲキ部員たちの多くとは今だに繋がっていて、先輩も含め何人かは現在も演劇を続けている。だが、悲しいことに既に1人は他界してしまった。みんなで集まるのは難しい。上演するアテもない。それでも、どこかでリーディングとして再再演できたらいいな、と夢見てる。夢の話だけに。

@spnminaco
後ろ向き日記