高校生で、真冬のことだった。
私とNちゃんは1時限目を終えると学校を抜け出し、駅へと猛スピードで自転車を飛ばした。
セーラー服にタイツと薄手のコートでは、足元から冷え込む。我々は人けのない駅の待合室で凍えながら、やがて来るであろう人を張り込んでいた。
数時間が経って、予想通り荷物を携えた集団が現れた。彼らは新幹線で東京へ帰るところ。とっさに後を追った。無我夢中だったので、うっかり彼らの列の中に混じってエスカレーターに乗り込んでしまい、非常に気まずい思いをする。
プラットホームに着いたとき、目の前にその人物が待っていた。黒いロングコートにレッドウィングのワークブーツ、黒縁ウェリントン眼鏡を掛けている。
彼に話し掛けた。
ずっと待ってたんですよ、5時間…いいえ何年も。今日はどうしても訊きたいことがあって。
昨夜、歌詞を変えたでしょう。ジェリー・ルイスじゃなくて、ウディ・アレンに。どうして?
彼は表情を変えずに答えた。
「うん。ぼぉくは時々、歌詞を変えて歌うことがあるんだ」
いや、そうじゃなくて、何故ウディ・アレンなのかと。
彼はまた答えた。
「いつも同じじゃつまらないからね」
私たちは思っていた。以前Nちゃんが彼に手紙を出したとき、勘違いでウディ・アレンと書いてしまった。やがて暫くして昨夜、この街で彼はウディ・アレンと歌った。私とNちゃんは驚いて顔を見合わせた。ウディ・アレンだって!
だから、どうしても確かめたかったのだ。だが言葉が足りず、質問の意図が伝わらない。こちらのもどかしさをよそに、彼は思いがけないことを言い出す。
「サインしたっけ?」
して下さい、と頼むつもりなどなかった。何も用意してなかった。彼は自分の鞄から愛用のノートを取り出し、オレンジ色に縁取られてザラついた紙の頁を破った。そして青色のボールペンを持ち、「名前は?」と尋ねる。
そんなつもりは更々なかったが、訊かれたんじゃ仕方ない。有り難く彼のサインを受け取った。すると、彼が右手を差し出したので、有り難く握らせてもらった。モチモチと柔らかい感触が伝わる。
「どうもありがとう」
礼儀正しくそう言い残して、彼は仲間の待つ車内へと消えた。
午後になって学校へ戻り、溜まり場と化す演劇部の部室に向かう。数人の部員が居て、私はさっきまでの出来事を伝えた。
その後も何度か、彼に会ったことがある。長い年月が経ち、部屋の壁には今もあの日のサインがひっそりと貼ったまま。すっかり古ぼけて、かなり退色してしまった。黄ばんだノートの頁には、薄っすらと斜め書きの文字が読み取れる。
Thank you for everything.
19x5. 2. 1 To Minaco.