推敲中の戯曲の参考に、Amazonプライムで『真夏の夜の夢』の1934年映画版を観た。シェイクスピアの饒舌な台詞を結構バッサリ削って、代わりにミュージカル調で歌ったりするのが当時の現代風アレンジかしら。電飾ルックのオーベロンと奇声を発する妖精パック(子役時代のミッキー・ルーニー)、白い幽霊みたいな妖精の群れが舞う森はなかなか不気味。飛んだり変身したりの特撮技術が見事だった。クマも出てくるよ!
ところで、1961年作のとある邦画を観て思ったけど、日本だとむしろもっと以前の映画の方がモダンで、この辺りの時代が一番古臭く感じるものである。一つには、センスが保守的に傾いて現在にも残る昭和イズム(男性主体、家父長制)どっぷりなのが観て取れるから。都会的でハイカラだったロマコメも逆に垢抜けなくて田舎臭くなっちゃう。実際地方から若い人口が一気に移動して、田舎の感覚が都会に分散しただけみたいな。または、サバービアの新興家族を定義する拠り所に前時代のクリシェを焼き直したみたいな。だからどうもウェットで閉鎖的で、映画の中に華やかなモダンさがないのかも。
さておき、ピーター・ファレリー監督『俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー』と、ジョージ・ミラー監督『アラビアン・ナイト 三千年の願い』は、タイプが全然違うけどどちらも「物語とはなにか」の映画だった。なりすましものコメディも、魔人の壮大な神話も、物語はそれを必要とする人がいて、語り手と聞き手が要る。そこに等価交換が成立する。物語は願いである。
『こいつで、今夜もイート・イット アル・ヤンコビック物語』も、徹底してすべてパロディにして物語るアル・ヤンコビックの「伝記映画」。幕開けから既に『オール・ザット・ジャズ』のパロディ、その後も70〜80年代スターに扮した豪華キャストがノリノリで可笑しい。まさに人を喰ったトールテール。
何事も物語に始まり物語に終わるのだ。とはいえ、自分にはてんで想像力がない、妄想力しかないと思う。だからこそ他人様の物語に乗っかるのが好きといえるのかも。
結局、3月中に映画館で観たのは3ヶ月遅れでこっちにきたアキ・カウリスマキの『枯れ葉』だけ。4月はせめてショーン・ダーキン監督の『アイアンクロー』と、『コット、はじまりの夏』は観に行かねば。