スポーツの奥義

すぽらら
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大学の授業で初めて弓道をやった時、自分の矢だけが的に当たった、そんなことがありました。別に周りより運動能力が優れていたとか、そういうことではないんです。なんせ当時の私はサッカー部の4軍ですから。能力は平々凡々。それでも何となく当たるような気がしていた。それは師がいたからでした。

「あなたは何をしなければならないかを考えてはいけません」

(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』稲富栄治郎・上田武訳、福村出版、1981年、p.55)

著者オイゲン・ヘリゲルが弓道師範の阿波研造に師事したように、私も『弓と禅』を読み彼を師とすることにしました。スッと入ってくるような文章ではないし、うまく飲み込めない部分も多い。でもこの本にはスポーツ上達の極意が書いてある、スポーツの奥義が詰まっている。そんな気がしたのです。 この人を師としよう。そういうことができるのが本の良いところですね。本を介せば時を超えられる。今ここにいない人にも、弟子入りすることができる。

そうやって弟子となることを決めると、不思議と自分とヘリゲルが同化していきます。ヘリゲルが師の言葉を理解できずにジタバタする時、やっぱりこちらも同じようにジダバタする。

「正しい射が正しい瞬間に起こらないのは、あなたがあなた自身から離れていないからです」

(前掲『弓と禅』、p.58)

わかりそうで、わからない。どうしたらいいんだろう。混乱と疑問が頭の中をグルグルと渦巻く。すると、こちらの気持ちを代弁するかのようにヘリゲルが質問してくれます。

「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし”私が”しなければ」

「”それ”が射るのです」

「”それ”とは誰ですか、何ですか」

(前掲『弓と禅』、p.92)

素晴らしいプレーやとても良い動きができた時、”まるで自分ではないみたいだった”、そう感じることがあります。別にスポーツでなくても、楽器でも、作画でも、演技でも、何でもいいんですけど、なんかわからないけど上手くできた。そういうことがある。

私たちは上手くできた時、まるで ”自分ではない” ように感じる。”自分ではない誰か” がそれを行った時、なぜか上手くできる。では、その ”自分ではない誰か” とはいったい誰なのか。そして、どうしたら現れるのか。

それは、すぐにはわからないかもしれません。だからまた本を開く。そして読むたびに訪れる新しい発見を、身体に染み込ませるようにしてページをめくっていく。自分ではない誰かとはいったい誰なのか。

自分ではない誰かとは・・・。いったい・・・。

でも、たとえこの謎に対してスッキリとした答えが見つからなかったとしても、特段気を揉む必要はありません。「この謎が解けなかったら『スポーツの奥義』の恩恵を受けられないんじゃないか」とか、そういう心配はいらないんです。わからないままでも大丈夫。

それはなぜかと言いますと、答えの出ないこの謎を自分の中に抱え込んだまさにその時、私たちは『スポーツの奥義』に触れているからなんです。

@spolala
スポーツの上達を探る人。頭の中の整理整頓。