最近のYouTubeを見てると、宗教戦争でもしてるのかな?って思う。
脳死で崇めて、教祖の意と別解を述べようものなら、断罪だと叫ぶ。
視聴者が神の風を受けて、特攻していく様は滑稽とは思えない、空を切る悲しい風切音が響く。
教祖側は、どう思ってるんだろうな。
あとは、コメント欄のプロレスも、なんだか寂しさを感じる。
人は同じところに収容されると、人を攻撃し始める。本人達は正しさを問い、悪きを正そうと試みてるのかもしれない。
いじめの構図も、言ってしまえば同じ原理。
側から見れば、タワゴト、ザレゴト、オママゴト。
未だRPGの世界から抜け出せてないのかもしられない。確かに現実って時に厳しく、時に不条理ではかもしれない。
救いはないのか?と思うかもしれないが、受け取り方の自由が約束されてる限り、甘くも辛くもなる。
宗教というのは、生きる軸だと思っている。
自分では決められない事象現象に、折り合いをつける基準を作ってくれる。責任は全て神にある。
となると、一個人の中で築かれた法則は、一つの宗教と言える。
その発展の途中であり、もしかすると、民は今まで自我がなかったか、自我を抹消されてきたのかもしれない。
この状況すらも、良いとも悪いとも取れるわけで。
捉え方は、どこまでも自由だ。
自由は、いつも人々を救うわけじゃないんだよな。