近頃、詳しくなければそれについてモノ申してはいけない、という空気を感じる。
いや、空気という言い方は厳密には違う。私がそう感じている、という話が起点にあり、そのように私がネット世界を見ているのである。
だからか、近頃つい、「私はこの件について詳しくないけど、個人の感想として聞いてください」と喋り出しにつけてしまう。相手は間違いなくそんなことは分かっていて私に聞いているのに、それがないとなんとなく怖い。
これはひとつに、詳しいとは何なのか、多少なりとも分別がつくようになってきたこともあると思う。各分野には必ず専門家がいて、多くの専門家はできるだけ誠実に見解を伝えようとしてくれている。あるいは当事者だからこそ分かること、解像度というものがあって、色々なバイアスを差し引きする必要があっても意見としては貴重なものだ。それらを無視して訳知り顔で話すのは実態から遠ざかる行為になってしまう。それぞれは「正しさ」や「正確性」という価値観に紐づいている。
一方で、個人の感想に本来、正しさはない。解像度や角度という程度の差こそあれ、個人が何かに相対して、湧き出てくる感想というのはいつだって自分しか持つことしかできないもので、湧き出た時点である意味正解である。当然、詳しくなければ感想を述べてはいけないなんて馬鹿な話もない。
ところが近頃、感想と、詳しい人の言葉が取り違えられる場面が世の中存外多いのではないか、ということを思ってしまった。もっと踏み込んで言ってしまえば、「個人の感想」と「詳しい人の語り」を取り違えることを気にしていない人が意外と多いのではないか、という気がしている。
先日、noteに感想文を書いた。タイミングがよく沢山の人に読まれ、共感の言葉も沢山いただいた。それから少しして、その記事を読んだ知人に「あの記事、読みました。私は業界とか詳しくないし、そんな視点がなかったからびっくりしました。ほんとうにすごいですね」と褒められて、上手く返事ができなかった。
大変失礼ながら、それ、「詳しい人の語り」と取り違えてやしないだろうか、と思ってしまったのである。
そのときの私の感想文はネットで拾った知識とこれまでに出ている情報を整理しながら結論を出しており、それっぽく理論立っていた。私は元々そういうのが好きで、感想でも創作でも、延々と情報を整理して遊んでいることが多い。
ただ、それが「詳しい」こととイコールで繋がるかと言われれば、私は違うと思っている。私が遊ぶのに使う知識は体系と正確性に欠けており、雑学の範疇を出ない。この分野について少しは読んでみようと買った本はまだ積読の中にある。
確かに、感想の冒頭に私は「この分野に詳しいわけではない個人の感想です」と注釈を入れていた。あの記事は私の「感想」にすぎないと、胸を張って言うこともできる。
しかし、私がいくら「個人の感想」の延長にあるつもりで書いてみても、私よりもそのことについて知らない人にとっては、多くの場合「詳しい人の語り」と区別はつかないのである。そのことを目の前に突きつけられて、いやそれでも「感想だから」と言った私は無責任なのかもしれない、と怖気づいてしまった。
この手の読み手と書き手の受け取り方のギャップは本来、発信することが常に宿命として持っており、ある程度はもう仕方ないと割り切るしかない。これまでも、自身の創作については意図していない感想はもらってきていて、それについては、そう楽しんでくれたんだな、と流していた。ただ、それはフィクションだから流せていた、ということもあると思う。今回の感想は、界隈の人にとって未だ癒えない傷について触れるものだったこともあり、極力誤解を生まないよう、丁寧に書いた。それは言葉選びもそうだし、事実関係の確認もそうだ。つまり、間違いがないように連ねた自分自身の発言に対して、私はなおも「正しさ」の外に置きたがっている。
実を言うと、私は子供の頃から今に至るまで「正しさ」を求められるのが大の苦手である。私は基本的に正確に覚えることが苦手な子供で、とにかく覚えろ、正確に答えろと言う学校の勉強ができなかった。その苦しさが蘇るのか、今も反射的にマルバツがつけられる「正しさ」や「正確さ」を求められると逃げ出したくなってしまう。その裏返しとして、「正しさ」に対して多少過敏になっているということもあるのだろう。
一応、テストがなくなってからだいぶ経ち、仕事の中で肌で覚えた「正しさ」は私の中にも増えつつはある。いい加減、大人として「正しさ」に責任を持たないのはどうかと自分でも思うので、楽しめる範囲でちょっとずつでいいから本を読み、「正しい」知識を身につけられるようにしている。そして、「正しさ」は常に必要ではないし、「感想」をその価値観の中に並べるのはうまくないよと自身に言い聞かせているのだが、まあ、ご覧の有り様だ。ちょっとしたことですぐぐらついてしまう。
ざっくり言ってしまえば、私は自身の「正しさ」に対するコンプレックスを真正面から食らって動揺してしまい、ちょっと今、コミュニケーションにおけるバランスを崩して余計な前置きをしたり、物事を見てしまっている、ということなのかもしれない。
ちなみに、その結果、「自身が出したものに対する褒めを素直に受け取れない」という、かなり鬱陶しい返事をしてしまったのも地味にショックである。それをやらないように気を付けてきたのに。
そういえば、先日発売された「ブルーピリオド」にこんなエピソードがあった。
一年前の身近な人の死を抱え込んでいる友人たちに対して、「当事者ではない俺が、当事者の荷物を重いと決めつけてしまうのは違う」と言葉を飲み込んでしまっていた主人公・矢口八虎に、親友の高橋世田介が「矢口さんが感じたショックは大事にしてもいいと思う」と言ったことをヒントに、八虎は今一度彼らに向き直っていく。そして、「自分の視点から見た、『身近な人の死を抱えている友人たち』」をテーマに作品制作をしていくのだ。
八虎の繊細だけど、誠実な視点にちょっと襟を正した。
感じたことを否定せず、それが私個人のバイアスがかかりまくった感想にすぎないことを弁えて、あとは地道に手元の「正しい」ことを増やしていく。
それしか、結局のところ、この件に関して私が満足する解決法はない気はしている。今のところ。