ダッシュボードをなんとなく眺めていたら、ちょろちょろと目を通してくれている方がいるようで。しかも、滞在時間が積み重なっているのを見ると、たまに読み通してくれた方もいるのかなと想像している。
ひとに見せるために書いた文章でもないのですが、何か得るものがありましたか。あったならよかったです。
さて、毎度下らないお話を。
先日、自分が撮った写真を見てもらう機会があった。お題に沿っていくつか撮った写真を見比べてもらい、「立体感に対する関心がめちゃくちゃ強くて、情報を一枚に詰め込むのが上手い」との言葉をもらった。
あるいは先日、私のここ数年のマンガを読んでいる知人に好きなマンガを紹介したところ、「ああ、この作家さんに影響受けてるんですね。バランスが同じなので、すぐにわかりました」と言われた。
それを聞いて私は、こそばゆくも初めての動物を見るようにわくわくした。
自分が人からどう見えるか分からない、だからこそ気になる、という話題はおそらく人間が文明を獲得してから頃からずっとトレンドワードだ。私も他人事ではいられない。
それは創作においても同じで、自分の作風は書いている自分が一番わからない。だが気になる。創作物は作った人の鏡だともいう。それなら、なおさら自分で分かるわけがないのだろう。
私は趣味で、四半世紀近く何かしら作っている。時に漫画で、小説で、本を作っていることも写真を撮っていることもあれば、企画をしたり、プレゼンをしたり、あるいは批評と鑑賞文の間みたいなものをしたためていることもある。
これだけ出力し続けているのなら、ある程度自分の創作のことはわかるようになりそうなものなのだが、まだあんまり分からない。結局のところ、特徴というものは他者と比較したときにしか生まれないからというのもあるだろうし、あるいは私自身がこれくらいは普通だと思い込んで目を曇らせていることもあるかもしれない。
だからこそ、他人の目を通して見た感想というのは興味深い。それが一面でしかなく、相手のバイアスを通していることを留意しなければならないが、他人の口から出てくる私の創作に対する言葉は、いつだって予想外なものが出てきて、面喰った私は浮足立ってしまい、大抵その言葉を咀嚼するのに時間がかかって、そして人に話したくなってしまう。自分からまろびでたものを指さして、「私の作品は立体に対して意識が強くて、情報をまとめるのが上手いそうだ」「私の絵柄は作家の○○さんと似ているらしい」と。まるで気ままなペットの自慢をするように。
批判となるとそうもいかないが、批判するだけが感想でもない。相手のいいところ、傾向を言語化できることは基本的にはプラスの能力なので、みんな練習のつもりでもっと積極的にやっていくといいと思う。私もできるだけ差し出すので。
と、息巻いていみて、春先に人生で初めて占いをしてもらったことを思い出した。
飲みの席で友人から、ホロスコープと二次創作含めた創作物を見た上でオンライン鑑定してくれる占い師がいると聞いた。かねてから一度くらいはちゃんとした占いを受けてみたいと思っていた私は、ノリで予約戦争につっこんでいった。
後から聞くと、半年くらい予約がとれないこともザラの人気占い師だったらしい。ビギナーズラックで予約を勝ち取り、ホロスコープに必要な情報と、送ってもいいと言われたので当時書いていたオカルト小説や二次創作のマンガをいくつか送って、当日指定されるままにスカイプにログインした。
一言解説を加えておくと、ホロスコープとは、生まれたときの星の位置関係を読み解く西洋式の占星術である。対象の性質や傾向を読み解くことを主眼としているが、運命論に近い考え方を採用しているため、この先のことも読み解くことができる(と理解している。間違っていたらすみません)。以前、創作の参考にしようと試しに自分のホロスコープを読んでみようとしたが、めちゃくちゃ難しい&正解が分からないため、途中で断念していた。
そんな経緯もあって、何事もプロの手並みを見学しておいて損はないとわくわくしていると、挨拶もそこそこに、占い師は早口で私のホロスコープをその場で読み解き始めた。
そのときのメモを見返すと、こんな言葉が並んでいる。
「自分にとって価値あるものを多角的に知りたがる性質が強い」「他者を蹴落とすわけではないが、他人の用意した場所では力が発揮できないので、ガッツで自力で場所を作る」「攻撃性はないけど自我が強い」「ええかっこうしいなので、背負いがち」「詰め込むの向いてないのに詰め込みがち」「遊びがないとだめ」「食ってくためと割り切って仕事するとか無理」「何してるかわからない人になりがち」「自分にとって価値があることのために他人を使う」「他人を使って情報収集をする」「人と話してないと死にそう」「相手に発展性を求める」「本気になるのが苦手。本気になったら地の果てでも追いかけてしまう」「全く関係ないこと同士を繋げるのが上手い」「情報の整理が上手い」
当時、ゲラゲラ笑いながらメモをとっていたことをよく覚えている。言われたそばからそれを裏付けるエピソードが頭を過り、耳が痛いを通り越してもはや痛快だった。これだけ身に覚えがあることをズバズバ言われる体験をすると、占いにハマる人がいるのもよくわかる。
と持ち上げておいて何なのだが、実はこの件を私はすっかり忘れていた。覚えていたのは「全く関係ないこと同士を繋げるのが上手い」「情報の整理が上手い」くらいのことで、他はメモを見返して「あ~こんなことも言われてたわ」と思い出したものである。
先ほどの理屈でいえば、自分についての言及は浮足立つほど面白いもので、それならば記憶に残るのではないか。私がいくら科学寄りの思考が強く、占いに何かを預けるほど信頼はしていないとはいえ、あんなにゲラゲラ笑っていたのに。
おやつを食べながら考えてみたが、占いは結局、私を見てるわけではないからではないか、という気がしてきた。
占いは当然、私がなした何かを見ているわけではない。私のステータスをルールにのっとって紐解くだけだ。そこに占い師の読み解きの腕はあっても、今まで生きてきた私本人は基本的に存在せず、そこに因果関係を見出すのは私の錯覚である。(錯覚が起こっているからといって、間違ってるわけではないことがよくあるのも人間の面白さだが。)それでも読み上げられた傾向が私の人生にあてはめると当たっていると思うのは、占い師の言葉に反応して呼び出された私の記憶を、勝手に私の脳が根拠として使っているにすぎない。
根拠をつけているのが自分である限り、占いには意外性が発生しにくい。何しろ私の頭の中にある見方でしか私のことを説明しないからだ。(逆に、私が想定していない傾向は、ピンとこない、外れていると私の脳内で処理されてしまう。)
逆に、創作物の感想は私から出てきたものを見て、他人の語彙を介して出力されている。ほぼ必ず思い通りにならないが、根拠にされているものが私から飛び出て目の前にあるだけに、頭ごなしに否定することも難しい。だからショックを受けることもあって、その刺激を面白いと私は言っているのだろう。
(自分自身に対する言及に興味が薄いという説もあるが、それよりむしろ創作物を挟むくらいの距離感なら安心して聞ける、という意味合いの方が強い気もする。)
そういえば、私の記憶にかろうじて引っかかっていた「全く関係ないこと同士を繋げるのが上手い」「情報の整理が上手い」という鑑定結果だが、ホロスコープからこうった情報は読みとれないのではなかったか。これが実は私の小説を占い師を読んだ結果、分析として出てきたのだとしたら、これだけを覚えていたこともさもありなん、という話かもしれない。
結局のところ、創作物を見て感想をもらう、というのが私には合っているのかもしれない。それが一番、わくわくして、記憶に残る。
といったところで、ここまで読んで、お分かりいただけただろうか。こいつ、全く関係ないこと同士を繋げ」ており、「相手に発展性を求め」て、「他人を使って情報収集」をしているのである。
どっとはらい。