「しずかなインターネット」という言葉がいいなと思った。
Twitter(現X)は他人の思考が流れて来すぎて、流動性や新規の情報がガンガン流れてくるという意味では面白いが、今は自分の思考を連ねるには向かなくなってきてしまった気がする。
noteはクリエイティブを標榜しているだけあって、どこか見栄っ張りな雰囲気があって、それに思わず乗ってしまう。
病理医のヤンデル先生が、Twitterをやめるという宣言をされたときに、Twitterはもう望んでいた言語空間ではなくなった、という趣旨の話をされていたのを思い出す(本当にその後アカウントを消してしまわれた)。
Xになってからのおすすめ機能の強化は、ツイートの大量消費を促したし、実際読んで面白いと思うツイートが流れてくることが増えた。しかし、その一方で個別の意見を見えにくくする方向に作用している。これ、マスメディア化しはじめてやしないだろうか。どれだけの人が、名もなき個人のどうでもいい発信を集約した本来のTLを見ているのだろう。
かつて、SNS疲れという言葉があった。その言葉はたしか、Facebookなどで、知人の幸せな様子ばかりが流れてくるので、自分の辛い現実と比較してしまってつらい、疲れたという趣旨のものだった。今、Xではオタク同士の学級会から政治まで、多様なジャンルで玉石混合の意見が飛び交う空間となり、おすすめ機能が強化されたことで比較対象は”見知らぬたくさんの人”になった。
人の錯覚とは強烈だ。それがたとえば、週に一回の素敵な食事の様子を上げるアカウントだとして、それ以外の情報がなかった場合、勝手に毎日素敵な食事をとっているのだろうと無意識に補完する。あるいは情報として抜けている相手のパーソナリティを自分と同一のものだろうと想像する。実は相手はとんでもない高収入の人で、家事のために人を雇うような生活しており、自分とは全く比較対象になり得ないかもしれないのに。
またあるいは、こどもが3人以上をみんな、と表現するように、人は数を認識する能力は本来あんまり強くないらしい。みんなが言っていると感じる閾値は、理性で納得するよりもおそらくはるかに少ない。"みんな"と表現したその裏側に10倍の別の意見と20倍のサイレントマジョリティーと、そんなことを認識すらしていない1000倍の人々がいるはずで、"みんな"は全く多数ではないことがままあるのだが、それを実感することは不可能だ。
こういった錯覚は、わかっていても回避できない。それは多分、コミュニケーションの仕組みなどを見るに、人間が生きるのに必要な機能なのだろう。しかし、錯覚の機能はSNSを向いて作られていない。目に入れば無意識に補完し、比較する。胸がずんと重くなってから初めて、「そういう錯覚かもしれない」と知識を掘り起こし、美味しいものでも買って帰るかと無理やり切り替えるのが関の山だ。
つまりまあ、そうやって回避できない己の錯覚とのバトル(令和版)に疲れるのが今のSNS疲れなのだとしたら、ドアは開く個室を用意しましょう、という理念が出てくるのはしごく真っ当だなと思った。一介のSNSやってるだけの社会人がそう思うくらいなのだから、業界では何年も前からそういった危機意識があったのだろう。
感覚としては、数値化が始まる前の個人サイトをリンクだけで繋いでいた時期のネット空間をイメージしているがどうだろう。ドアがない完全にクローズドな世界にするのはちょっと寂しい。そう感じる程度には、よそ行きではない言葉がほんの少し共感を得ることの嬉しさも、ネットから与えられてきた。それが本来人が欲しているものという気もする。
自分の思考の言語化のついでに、またそういう経験ができたらいいなと思う。