少し前、車いす利用のインフルエンサー(?)が、映画鑑賞時の出来事に対する不満を述べて、話題になった。
そして先日アメリカで、ある夫妻が長年営むハンバーガー屋が、車いすで利用できないために訴訟を起こされ、閉店を余儀なくされたそうだ。
これらのことについて、自分の考えを書きたい。
まず第一に、障碍を持つ人と持たない人で差が生まれるというのは不正義で、正されるべきだ。
次に、これを正すことは簡単ではないというか、難しい。コストがかかるから経済合理性がないし、コストを度外視しても物理的な面から困難だったり、現状は対応策がなかったりするだろう。
まあ、そんなことは障碍を持つ人は気にしなくてよい。車いすでは特定の席に座ることを強制されたり、入店できなかったりするのが悪い。こうしたことは障害を持たない人は考えもしないから、何度も声を上げないと改善されない。
それでも……「障碍を持つ人と持たない人で全く差がない世界」は無限の彼方にある理想だ。決して到達できない理想に対しては、どこかで現実的なところに着地しないと実際に差が縮まらない。映画館の場合は、もともと車いすへの配慮がない状態からスタートし、車いす用の席ができたところがとりあえずの着地点だろう。
しかし、この着地点で満足されては困る。ゆえに車いす用の席での鑑賞をよしとせず、障碍を持たない人がするように席を選ぶ、というのはわがままではなく、正義のための行動だ。
とはいえ、車いす用の席というのは現状の妥当な解だと思う。従業員個人としては、車いすユーザーに対してはこうするべしというマニュアル―現状障碍を持つ人に対して業務範囲内で最大限できること―通りにやっているわけだし、それを超えてくる人というのはモンスターと取れる。
まあ、そんなことは障碍を持つ人は気にしなくてよい(二度目)。善良な市民に迷惑をかけることを躊躇していては、ストなんかできない。従業員が使用者に不当な扱いを受けている状態を打破するためには、社会が不利益を受けても仕方ない。本件も同じ理屈がいえるだろう。
ただ、映画館の件は、なんとなく従業員ではなく会社に責任を求められる(はじめからどの席も車いすで利用できるようにすべきだ、とか)のに対して、個人経営の店が閉店というのは、やりきれないものを感じる。
昔はどうだか知らないが、今は「車いすで利用できない店」なんて存在は滅びるべき悪である。改善できないなら死ね――
死ねは言い過ぎだ。この閉店は、普通に事業失敗したのと同じと考えるべきなんだろう。労働基準法を守らないことによって経営を成り立たせている会社なんて潰れるべきだ。それと同じ。そして路頭に迷うなら福祉を受ければよい。
しかしそう、自分が悪かった(悪人とかではなく、経営に失敗したという意味で)と割り切れるだろうか? 平等とかいう綺麗事のせいで破滅した。くそくらえだ……という流れがトランプのような人間を押し立てて、アンチ綺麗事な勢力が強まって……となるように思う。