ぼくが「美術」という言葉から想起するのは、「自己表現」だった。
つまりアートと表現される類のものである。
小樽の西洋美術館に行ってみて「おや?」と思う。
展示されている作品に感じるものが、作者による何かしらの発露というより何かしらの意図に従って作られた「工芸」に感じられたからだ。
食器や家具等の調度品は、その持ち主の嗜好性や射幸心を投影してデザインされ形を与えられたものだろうし、
ステンドグラスは、民衆の信仰や場への帰属意識を高めることを意図した意匠だろう。
表現としてでもなく機能性の追求とも違う。
これはきっとアート(美術・芸術)ではなく、何かの目的に対してデザインされたクラフト(工芸)なんだろう。
かといって、決して楽しめない訳ではない。
そのモノが生まれた背景や使用された日常を想像することや、なんの目的を持って生まれた意匠なのかを考えてみるのは、結構おもしろい。
「コレつくらせた貴族って、だいぶ趣味が悪いよなあ。まわりのセンスがいい人たちに陰口とか叩かれたりしなかったんだろうか…(写真とは別の調度品に対して)」とか
「こんなステンドグラスが自分の居る村の協会にあったとしたら、その村に生まれたことを誇りに思えるようなぁ」とか。
そんな風に思ってこれを書き出してみて、「そもそもアートの語源ってなんだろう?」と気になり調べてみた。
もともと「アート」の語源はラテン語の「アルス」にあり、これはギリシア語の「テクネ」を古代ローマ人が翻訳したものだ。「テクネ」は現在のテクニックやテクノロジーにも使われているように、技術とか手仕事といった意味。つまり美術のもとの語義は「手仕事」にあるといっていい。
つまり「アート」の元となる概念は「手工業」にあるということだ。
「えええぇえ…、今日考えたことって一体?」と思いつつ、もう少し思考を進めてみよう。
※もうちょい調べれば、もっと詳しく出てくるのかもしれないけれど、飛行機が飛んで機内モードになったので、とりあえず想像だけで進めるとする。
現代の英語でのartとcraftは明確に違った意味合いだ。
けれど「モノゴトの本質を捉え表出させる」という意味では、共通してるのかもしれない。
ギリシアが元だということは、プラトンの言う「イデア」をモノから引き出す営みがギリシア語でいう「テクネ」だったんだろう。当時の芸術は「本質はモノの側に宿っており、それを掘り出すこと」に意義を見出す営みだ(ったハズ…)
だからこそギリシア文化は写実性に飛んでおり、そこには確かな芸術性(アート性)を感じる。
それはきっと「モノゴトの本質に向き合う制作者の眼差しこそが、自己の表現に他ならないから」なんだろう。
考えてみれば今だって、超一流の工芸品は優れた芸術だ。
つまり「本質に向き合う」ことこそが「アート」の証明になるんじゃないだろうか。
ぼく自身の思考の整理のために書き進めてきたけれど、なんとなく結論が出たので今日はこの辺にしておこう。
以上、小樽の西洋美術館は「西洋工芸博物館」に改名するべきでは?という話でした。