記事の話を書いていたら、もう少し書きたくなった自分の話。
ぼくは高校生だった頃から、自分のコトをずっと「からっぽ」だと感じている。
2022年5月にも、slackにこんな投稿を残している。
※「ずっとそう考えていた」類の話ではなく、事後遡及的に分析するとずっとそういう考え方・思考が底流にあった。という話。
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好きなもの・語れること・誇れるものが自分の中にない感覚。 高校時代から、今に至るまで感じる自分の薄っぺらさ。
ウィルドアに集まってきてくれる人たちの中に、必ず感じるような。
ぼく自身が好きで、一緒に居られたらと願う人たちの中に、感じるような。 そこまで強いものじゃないとしても、多くの人が当たり前に持っているように見える
「自分の感情や、感覚への信頼」
ぼくの中には、そういうものが見当たらない。 小手先の技術や言葉、器用さ以外に、大して役に立つものがない。
自信をもって、あるいは何の疑いもなく「好き」だと言えるもの。 自分の中にある「楽しい」や「正しさ」に、人を巻き込んでいけること。
そんなものを持っている人たちのことが、ずっと羨ましかった。 憧れだった。
けれど、どれだけ探しても自分のなかにそんなものは見つからない。
(後略)
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忙しさや責任感が直接の原因ではあるけれど、こんな感覚が精神疾患に陥ってしまった遠因ではあるんだろう。
これじゃいけないって、ずっと考えてはいたけれど。
20年も抱えてきた感覚が、数年で軽く解消できる訳はなくて。
今も、ぼくという個人に「からっぽ」を感じることに変わりはない。
けれど、最近スッと腑に落ちたことがある。
ぼく自身には何も無かったとしても、まわりに居る人たちが「からっぽ」の中身を埋めてくれている。
自分自身を誇ることはできなくたって、まわりに居てくれる人たちは胸を張って「誇れる友人たちだ」と言える。
「37にもなって、今さら?」って感じで溜息も漏れるけれど。
「ぼくの中身は外側にある」
それで良いと思えるようになっていこうと思う。
(この場所では、そんな素敵な「中身」についても追々書いていきたい)