10:00過ぎ、仕事に向けてソファで身支度を整えている時に叔母から電話が掛かってきた。
「ああ、いよいよか」
そう察する。
ひと月前に叔母から電話があった際、父が事故を起こし重体だと聞いていたからだ。
その後、何度かLINEを入れたものの既読すら付かない。
これはもう意識が戻っていないのだと理解できていた。
横浜の病院に入院していた父から緊急の呼び出しがあったのは、2022年11月のことだった。
ステージⅣの癌だった。
父と共に医師から余命11ヶ月との宣告を聞いた。
尽く気が合わず、数時間でも共に居るのが苦痛な父だったが、最期くらい面倒をみようと心を決めた矢先、父は故郷である北海道旭川へと帰ることを決めた。
コロナ禍で旦那を亡くした姉(私にとっては叔母)の元で厄介になるらしい。
半年後、私にとっての実家を売払い、売却の手続きを私に残して早々に旭川へと帰って行った。
叔母には心から申し訳なかったし、正直なところ色々と厄介なことになったとは思ったが、父にとってはそれが一番なんだろうと納得した。
最期の半年くらい、生まれ故郷でゆっくりと過ごすと良い。
けれど、よっぽど旭川の空気が肌に合ったのか、医者の腕が良かったのか。
帰った後の父は、ステージⅣとは思えないほど元気を取り戻していった。
横浜に居た時は抗がん剤の影響で髪も抜け、流動食しか食べられなかった父が、2023年9月にはジンギスカンを食べられるようになっていた。
2度と横浜で会うことはないと思っていた父が、今年の3月にやって来た。
抗がん剤が効き、もう数年くらいは生きられそうだとのこと。
こんな(求めていない)ところで奇跡というのは起きるんだと感じた。
同世代で若くして死去したあの人やあの人に、どうしてその奇跡が渡らないのだろうか、とも。
「また夏には北海道に行かなきゃな。」
叔母から事故の連絡が入ったのは、そんな風に思っていた父が旭川に戻った1週間後だった。
幸い、単独事故だったという。
抗がん剤で足腰が弱っている人が車に乗るもんじゃないと、何度も言ったのに。
1,000km離れた地に住む人にできることは高が知れている。(免許の返納の仕組み、本当にちゃんと整えて欲しい。周りの家族のためにも、町を往く人たちのためにも)
鎖骨・肋骨・腰骨を折って、頭にもダメージが大きくあったらしい。
このタイミングで、私は一度旭川に来るべきだったのかもしれない。
けれど勝手に帰ったのは父だ。私だってやらなきゃいけないことが山ほどあったし、旭川に来たからといってできることはほとんどない。
そんなこんなで、旭川に来たのは今朝連絡があった9時間後になった。
10時に掛かってきた電話で、叔母と叔父から訊かれる。
『痰の吸引を行わないと、危ないがどうするか?』
「ああ、これ、おれが決めるのか」
昔、noteに書いたけれど、私は父のことが基本的に本当に好きではない。
それでも縁はあるし、何より1つの命が消えることを自分の意思を持って明確に選択するのはキツい。
それでも「やらなくていいです」と伝えた。
父からも『寝たきりになって長生きしたくはない』と聞いていたから。
結局、私が着いてから今この瞬間に至るまで父はまだ存命である。
病室に入り、父を見る。
もう、生きているとはいい難い状態であった。
目は見開いたまま閉じられず、光なくどこかを彷徨っている。
鼻にはチューブが刺され、喉に差し込まれるように首は一直線に伸び切っている。
手は思いのほか綺麗だったが、腕・脚・腹、すべてから肉は落ち、もう骨と皮しか残っていない。
それでも音は聴こえているのか、私や叔母が話しかけると「うー」「あー」と何かを訴えかけるように呻く。
「死なせてあげて欲しい」
率直にそう思ったが、それは口に出せなかった。
人の死は、せめてもう少し尊厳を持って迎えられるべきじゃないだろうか。
これは「生きてる内に会えた」と言っていいものなんだろうか。
それはそうとして、父は自身の「生」は全うできたんだろう。
「自身の何が悪かったのか」本質として顧みることはなく、叔母のような優しく強い人に看取られて。
本当に凡そ尊敬できるところが見当たらない父ではあるが、この世に生んでくれたコトは感謝もしているから、息子も特に父の嫌いなところを直接伝える訳でもない。
3月には、父の旧き善き時代の記憶を聞かせてもらった。
聞いている側としては、溜め息を吐きたくなるエピソードばかりだったが、父にとっては大事で輝かしい記憶であることは感じられた。
あなたもよく頑張ったと思うよ。
これ以上は特に言うこともないし、正直「終わってから」の方が大変そうで、そちらに意識が向いてしまうところが多いけれど。
最後にひと言。
まだ息は続いているけれど。
続いているからこそ、本心で吐ける言葉として。
お疲れさま、父さん。さようなら。