コンシューマでも、フリーゲームでも、尖ったゲームが好きだった。シナリオ、システム、レベルデザイン諸々がとにかく尖っていれば頭に「面白い」と刷り込まれていた。前衛的なアートや映画も好きだった。「こんなの見たことない!」という感情が最優先で、それが本当に面白いのか、教養になるのか、自らの血肉として活かすことができるのか、そんなことは二の次だった。
そして現在、まあ、ぼちぼち尖ったものは好きなのだが、いわゆる前衛的なものとは少し距離を置いている。それは性格が落ち着いたとか丸くなったというニュアンスとは異なる。要するに「文脈」が変わったのだ。尖ったものをファッションとして嗜んでいたころには、それを装って自分を演出しようとする文脈に淫していた気がする。今はそれが面倒くさい。ベタでも面白くてタメになればいいのではないか? 対外的な視線で生きずにそもそも内省的に生きる方が楽なのでは? 楽に趣味などを楽しめれば、それに越したことはないのではいか? などなど、自分が楽をする方向の文脈に変わってきた。その変化の一因としてX(旧Twitter)を眺めていたころの苦々しさがあるのだけど。