「正答が提示されない物語」に拒否反応を示す消費者は多いと聞く。実際、ネットやリアルを問わず自分の周囲にも「解答編の無いミステリは読む気が起きない」(婉曲表現)といった声は溢れている。そのスタンスを悪と断じるつもりはないし、断じる資格も自分には無い。
思うに、正答とは消費者の心の拠り所であり、道筋や勘所を立てるためのもっとも明確な基準なのだろう。方向性の定まっていないものは混沌としているし、正答(と、されるもの)に向かわない人生は心無い人々から唾棄される。だが、ゆえに、「正答が提示されない物語」が愛おしくなる。それが自身とナラティブを同一視した幼稚な感覚なのは分かっているが、正答を見つけられなかった人も、答えは自分で見つけろと尻切れに終わる物語も、すべてが愛しい。何なら、そこにある「解答編」という王冠は自分が戴くことができるのだ。