「恥ずかしさ」や「照れ」というもの

佐和
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 雑誌『ele-king』が届いたので読んだ。「2023年ベスト&2024の注目映画!」と題された特集は読み応えがあり、『Pearl パール』を観逃していたことを悔やむなどエモーショナルな追体験ができた。いや、まだ観ていないのだけれど。

 個人的な話。映画でも書籍でもいいのだが、それらをランク付けて発表するという行為には少々の気恥ずかしさを感じている。だが、自己主張のあまり上手でない自分としては、コンテンツという媒介を用いて断片的に、婉曲的に自分を主張できる「◯◯ランキングを編んでみた」という行為にずいぶんと助けられている(いた)二律背反めいたものも同時に感じてしまうのだ。

 感じてばかりで大変申し訳無いが、何かを書いてネットに発表する行為にだって当然恥ずかしさや照れは感じている。いま書いているこの文章だって、後々に見返してみると枕に顔を埋めてジタバタしてしまうタイプの文章なのかもしれない。直近で言えば、やや性的な内容が含まれる短編を投稿した折にPVが少し伸びて、恐怖と照れを感じたものだ。

 恥ずかしさも照れも、「自己を曝け出した時の他者からの否定」から自己防衛を行なうための本能なのだろう。若い内には「俺は本気なんて出してない。ふざけてるだけ。テキトーだよ」という言動で現れ、歳経てからは「わしを敬え! 何をしても従え!」と強迫的な態度で吐露してしまう本能だ。それらを否定はしないし、今までの自分の言動を鑑みても否定はしてはいけないとは思う。しかしその本能への拒否をスタンスとすることはできる。映画でも、小説でも、優れた作品に照れながら作られたものなどあまり無いのだし。

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