コダワリ

佐和
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『すべてがFになる』で新本格界隈に新風を吹き込んだ森博嗣先生の座右の銘は「こだわらないこと」だという。本物のインテリゲンチャが仰ることであるので、これには様々な含蓄がある。こだわらなければ執着も無い。時短になる。経済的余裕ができる。喜怒哀楽の怒と哀の部分の負担が軽くなる。こだわらなければ本当に様々な事柄が楽になるだろうなと考えさせられる。何よりも執着を捨てる思考は釈迦の教えにも通底するものではなかろうか。

 コダワリ(敢えてカタカナ表記をする)のせいで損をし続け他者とは衝突し失い続けてきたコダワリの強い自分としても、「コダワリ、どっかにまとめて捨てたいなぁ」と時々思わぬでもないのだけど、捨てに行く一歩がなかなか踏み出せない。多分、コダワリを捨てるのは自我の消失と同義であると、どこかの生きていく過程で吹き込まれ刷り込まれていたような気がする。

「こだわり」というものは最終的に生まれる観念であって、過程にこだわるとロクなことにはならないのでは? と漠然と考える。過程でやたらコダワリを見せて失敗し続けてきた自分を鑑みるにそうとしか思えないのだ。そこで当然、「じゃあ結果ってどの時点よ?」と至極当然な疑問が発生する。人生は過程と選択の連続であって、結果としての「こだわり」を得られるのはごく少数の人間でぇ……ここまで書いて知恵熱が出てきたのでやっぱ「コダワリ」って面倒くさいから減らした方が良いな。と思った。

@steelbook
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