あっという間に1日が終わった。今日は神戸のkiitoという芸術センターで災間文化研究会主催のイベントを見に行ってきた。その中で小森はるかさんの『ラジオ下神白』という作品を観る。その後に、映画で実際に写っていたアサダワタルさんと災間文化研究会の先生方のトークイベントを聞いた。
舞台は福島県、下神白団地にある公営住宅。浪江、双葉、大熊、富岡から避難している方々が中心にいた。そこに伴奏型支援バンドという試みでそこに参加していく。住んでいる人たちの部屋で思い出の曲を聴きながらを人の話を聞く。例えば美空ひばりの曲がかかれば、当時美空ひばりが亡くなったことを人から聞いたこと、恋人に振られた時に聞いた曲が流れればそのことを、音楽をラジカセで再生するとその当時の記憶が再生されてしまう。そのこと考えながら、自分もそういえば聴いたラジオをまた別の時に聞き返すとその時の風景が蘇ってしまう。音楽あるいは声がその人の記憶を再生する。メディアの音声は複製され何度再生しても同じ音源が流れるのだけど、それを聴く人にとってはありありと当時の聞いていた時の風景が毎回新鮮に立ち上がってきてしまう。この映画で録音された音源たちは『福島ソングスケイプ』として作品になったわけだけれども、サウンドスケープならぬソングスケイプ。すなわち歌が立ち上げる風景というわけだ。
こうしたメディアとして作品にすること、そしてこの活動を映画として作品にすること。この作品にすることにアサダワタルさんがこだわっていた話があった。
こうした作品として出すこと、ただの映像ドキュメンタリーとしてだけでなく映画にして、収録したラジオをいつでも聞ける音源としてディスクに焼き付ける。こうした作品にすることは、私たちの考える日常のその枠組みの外部になるんじゃないか、という話だと私は聞きながら思った。作品にすることで、記録として残りながらいつかの時代のどこかの誰かがこれを聞いて観て色々なことを思うようになるかもしれない。情報の伝達として、誰かにとっての出来事になるかもしれない。そういうことのために作品にする必要があるのだ。確かにアート系のイベントはアウトリーチとしての作品化というものは当然ある。でもそうでないあり方、いつかどこかの誰かにとっての外部になるかもしれないという装置になること、それが作品化の意義なんだろうと思った。
そもそも災害というのは私たちの外部から突然やってくる。災害は常に出来事であり、日常をそれまでとそれからに変容させてしまう点的なピンポイントの出来事なのであり、それを防ぐということや影響を減らすということは無意味である。なぜなら出来事は端的に出来事であり、それは偶然の戯れで気まぐれな存在でしかない。私たちは常に災害の「中」にいるという話もそもそも成り立たないはずだ。常に災害は外部からやってくる出来事なのだから、常に災害の中で自然に晒されているとも言えるし、逆に常に災害の中にはいないからそれが点的な出来事になるともいえる。
支援する/されるという二項対立も、それはあくまで行政的な制度枠組みの言葉使いでしかない。それは復興にも当てはまるのかもしれない。アサダワタルさんが言っていたのは、支援という枠組みで取り組んでしまうことで逆に生じる悪循環の話をしていたように思う。日常生活がうまくできなくなって行い、例えば、ゴミを捨てられてていないような状況に、支援の行政的枠組みで、その現実に向き合えるのだろうか。そこに必要なのは、日常としてコミュニケーションを行うなかで人を心配し気遣うという災害関係なく人間が行ってしまう社会的行動がそこにはなくてはならない。支援するされるの二項対立はそもそも二項対立ですらない、という当たり前のことに気づけていなかった、そんな気がしたのだ。
このドキュメンタリーでは、その人の背景的な情報が遮断されていた。例えば家族の話とか。トークの方でも話題になった謎の少女の話とか。作品の機能面としては、鑑賞側の想像力を用いたその外部への思考ということに力点があるんだろうなということもトークイベントを聞きながら思う。それにしてもなぜ、その人の身体的な動きを、あるいはその人の表情を見ているとその時のその人の感情があたかもわかってしまったような気になるのだろうか。あるいは、映像を見ながらも見ている私は過去の自分の経験したあの時の出来事を重ねてしまっている。そうした情動あるいは他者への共感というのが、映像を通じて可能になってしまうのは一体どういうことなのだろう。まさに「分有partage」、これが一つのテーマであったわけだが異なるものが経験をあたかも共有できているという錯覚だがそれでも共同体ができてしまうということ。何も共有することのない者たちの共同体は単に幻想から生じたのかもしれないがそれでも一つの共同体として成立する。そういうことを色々と思った。
また小森はるかさんの作品は観よう。そして、自分は防潮堤から三陸を、街を知りたいのだ。なぜあの街で海が見えないということがどんなことなのか、そのことが知りたいのだ。
22:13
神戸三ノ宮は美しい。ここにくると元気になる。