画面の向こう側で

studio_graph
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2024年は年が開けてから大変なことが起き続けてしまっている。1日は大きな地震が起きて,2日は飛行機の事故があった。傷ついている人がいる,困っている人がいる,そう感じるのに,私にできることは,画面の向こう側で被害状況をじっと見つめることだけだった。

募金しようとか,ボランティアをしようとか,そんな気にもなれず,ただただぼうっと画面を見ることしかできなかった。画面の向こう側で大変なことが起きていても,私の毎日はどうしようもないくらいに平和で,どうしようもないくらいに安全で,どうしようもないくらいにいつもどおりだった。

ほとんどすべての人が高性能なカメラを備え,インターネットにつながった情報端末を持っている。そんな現代では,被害状況がテレビカメラとほとんど変わらないクオリティで新鮮に届けられる。けれど情報の新鮮さと信ぴょう性はトレードオフの関係にもある。

ストーリーが世界を滅ぼす でも書かれていたように,こんなときには,こんなときだからこそ,物語性をもった情報はあっという間に拡散されていく。救助隊やボランティアについての美談と同じように,火事場泥棒や性被害者への醜聞は広がっていく。

私にできることは,沈黙しかない,と感じる。私たちが物語性のある情報を拡散したくなってしまうのは,その性質がおそらく人間の本能とほとんど同じところに根ざしているからだ。つい拡散したくなってしまう情報が出てきたとしても,じっくりとその情報の真偽をたしかめなければならない。そして真偽がわからない情報に関しては,黙っているしかない。強くそう感じる。

こうした状況では,なにもできないじぶんにやるせなくなってしまう。けれど,こんなときだからこそ,黙ってじっと祈ることしかできない。私には,どうしようもなく平和な日常をじっと続けていくことしかできない。

@studio_graph
こういう文章を書けるようになりたい。