書きたい回路 でも書いたように,それなりに日々が充実していたので,またしばらく書くことから遠ざかっていた。いや,遠ざかっていたというのは正式には嘘で,友人に頼まれてひとつ記事を書いた。承認が足りなくなって,書きたくなったら書いてきた私にとって「書いてください」と言われてから文章を書くのは,実はなかなか骨の折れる作業だった。承認を得るために文章を書いていたはずなのに,私に依頼してくる友人は書く前から私の文章を承認してくれることになるからだ。いったいそれでは,私はなんのために書くのだろう。
そうは言っても,〆切は来てしまう。〆切を伝えられるのが1ヶ月前だろうが1年前だろうがそれはあまり関係なくて,結局のところギリギリにならないと書く気なんて起きないし,書いたとしてもいいものだとは思えない。あれを書こうかなとかこれを書こうかなとかずるずる考えているうちに〆切が来て,終わるとか完成するとかではなく,魂を込めた諦めと妥協の結石が出る。そういうものだ。
〆切に間に合わせられるかどうか,もプロとアマチュアを分ける大事な要素のひとつだ。幸か不幸かライターには資格が存在しないので,だれでもプロを名乗れる。こんな私もお金をもらって文章を書いた経験があるのでプロを名乗っても問題ないような気もするけれど,いつまで経っても自分の書いた文章に自信なんてないのだった。けれどそんな態度では頼んでくれた友人に大変失礼だ。そんなことをぐるぐる考えながら書き上げたのが いつだって青く見える というエッセイになる。
他人の生み出したコンテンツを消費し続けるだけでも足りないくらいに人生は短い。私だって一丁前にオタクをやっていたし,さまざまなコンテンツには触れてきたつもりだった。アニメはどれだけ観ても楽しかったし,映画を観て涙を流すし,当たらないライブにいくつも申し込んだし,出演者のTwitterやinstagramまで追っかけていた。
けれど,いつからだったか,コンテンツを消費し続けることに虚しさをおぼえるようになってしまった。お金を払ってコンテンツを消費する。それはだれがやっても一緒だと感じるようになってしまった。私がわざわざ感動しなくたって,大勢の他のだれかがそれを見て感動する。そのだれかが,そこにお金を払って,コンテンツは続いていく。そこに私は必要ないように思えた。
だからこそ,私は創作をする。考える。そして文章を書く。他人の生み出したコンテンツを手放しに感動する大勢にはなりたくない。感動させる側になりたい。
いつまで経っても自信の持てない私の文章を「好き」と言ってくれる友人がいる。明確な読者を想定せずに書く文章を書くのはとても楽だ。評価されることから逃げているから。けれどインターネットではそうはいかない。こうして公開してしまったら,だれかには読まれているし,私だって心の底ではそれを望んでいる。
もだもだ書いているうちに,ここにも記事が溜まってきた。さっきのエッセイも含めて,実は思わぬ人が私の文章を読んでくれていて,ときどき感想をくれるようになった。「あなたの文章が好き」と言われるのは,たまらなく恥ずかしく,むずがゆいけれど,たまらなくうれしくもある。こういう文章にわざわざ悪評を送ってくる人なんていないと思うけれど,やっぱり,それでもうれしいものはうれしいのだ。
じぶんの書く文章が,少しだけ好きになれた気がする。それだけじゃなくて,ちゃんと好きな文章に「ファンレター」を送るようにしよう。あなたの文章はちゃんと私の心に響いていますよ,と伝えるために。